政界の爆弾男に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 02:13 UTC 版)
1949年の第24回衆議院議員総選挙に田中は、新潟4区から民主自由党公認で立候補し初当選。この時の選挙では、二千数百万円を買収資金としてばらまいたとされ、選挙違反で逮捕され翌年有罪判決を受けるが、恩赦を受ける。民自党→自由党では広川弘禅と行動を共にし、広川が分党派自由党に走った際にもこれに従うが直ぐに自由党へ復党している。 1952年に衆議院決算委員長に就任。1954年の造船疑獄で、政界工作の会合に出ていた当事者を記した森脇将光によるメモ(森脇メモ)を引き合いに出し、当時の吉田茂首相や緒方竹虎副総理・佐藤榮作自由党前幹事長の証人喚問を行おうとした。このため堤康次郎衆議院議長が「決算委員会としての調査範囲を超えない様に」と勧告、田中はそれでも喚問を強行しようとしたことから自由党を除名され直後に結成された日本民主党に鞍替えした。
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