市兵衛の個人事業から古河鉱業への発展
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「古河財閥」の記事における「市兵衛の個人事業から古河鉱業への発展」の解説
市兵衛は、1875年(明治8年)は家業と事業が未分離な「古河本店」(現・古河機械金属)という組織で発足したが、1897年(明治30年)、2代目当主の古河潤吉の強い主張に基づき、家業と事業を分離し、古河本店を「古河鉱業事務所」と改め、更に市兵衛が亡くなった後、1905年(明治38年)に古河鉱業事務所を合名組織として「古河鉱業会社」(現・古河機械金属)が設立され、古河潤吉が社長となり、他の社員は古河虎之助・吉村萬治郎・原敬・木村長七であった。 古河潤吉は陸奥宗光(のち外務大臣)の次男で、宗光が小野組糸店時代の古河市兵衛の人柄に感服し養嗣子とする約束をし、古河家に入った。古河虎之助は市兵衛の実子長男であり、原敬(のち総理大臣)は陸奥宗光に才幹を認められ、外務次官や逓信大臣を歴任した政界の重鎮であるが、古河潤吉の要請を受けて新会社に参加した。木村長七は市兵衛の小野組時代からの部下であった。
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