市兵衛の独立
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古河市兵衛(天保3年(1832年) - 1903年(明治36年))は、京都・岡崎の商家・木村家の次男・木村巳之助として生まれたが、既に実家は没落していたという。市兵衛は丁稚奉公に出された後、貸金業を営んでいた叔父を手伝い、その知人である古河太郎左衛門の養子となり、古河市兵衛と名乗る。太郎左衛門は、京都にある小野組の生糸買付を担っていたが、病気で倒れると、代わりに市兵衛が小野組の使用人になり、生糸輸出・米穀取引・蚕糸などの取引で活躍。幕末期において三井組(のち三井財閥)と並ぶ有力な番頭になった。 1872年(明治4年/明治5年)には鉱山事業家・岡田平蔵と提携し、秋田県下の鉱山経営を行なったが、2年後に岡田が死去。鉱山経営は小野組が引き継ぐことになるが、1874年(明治7年)に破綻。翌1875年(明治8年)に独立し、鉱山事業に自ら取り組むことになった。これが古河財閥の始まりであり、今日の古河機械金属の前身である。 市兵衛がビジネスの基本を学んだ小野組は元は近江商人で、陸羽地方の物産を京都・大阪の物産と交易していた。後に事業を拡大し、明治維新の当時は三井組、島田組と並ぶ大金融業者であった。1868年(明治元年)、小野組は三井組、島田組と共に政府の為替方を命ぜられ、新政府の租税の収納・送付を取り扱った。小野組は、更に生糸貿易、製糸・鉱山・米相場・油相場などへも進出し、第一国立銀行(現・みずほフィナンシャルグループ)を三井組と共に出資設立するに至った。しかし、事業拡大に伴う放漫経営と大蔵省為替方としての任務懈怠が主因で大蔵省より閉店処分を受け、1874年(明治7年)に破綻。小野組の事業資金は、第一国立銀行からの借入で賄っていたから、第一国立銀行も共倒れする可能性があった(同行の貸出金総額約300万円のうち、約140万円が小野組に貸し出されていた)。 そこで、第一国立銀行総監役(頭取)の渋沢栄一は、面識のあった市兵衛に善処を依頼。市兵衛はこれに応じ、市兵衛と小野組の所有する株式や鉱山やその建造物などの十分な担保を提供し、第一国立銀行の損失を2万円弱にとどめた。しかしその結果、市兵衛は裸一貫となって小野組を去ることになる。渋沢栄一はこの時の市兵衛の行動に感謝し、以来、親密な関係となった。現在、澁澤倉庫が古河グループに属しているのには、このような経緯もある。
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