外務大臣に就任
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1982年(昭和57年)11月27日、第1次中曽根内閣が成立。中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。安倍は外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は必ずしも国際派というわけでもなかったが、義父・岸信介の米国人脈を生かし、韓国などアジア諸国との外交にも尽力したこともあり、マスメディアなどでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。 1986年(昭和61年)7月6日、衆参同日選挙が執行され、自民党が大勝。同年7月14日、福田赳夫は派閥会長の座を安倍に禅譲。7月22日に第3次中曽根内閣が発足すると、安倍は党総務会長に就任した。 中曽根の総裁任期満了が近づくと、後継総裁候補として安倍、竹下、宮沢が出馬表明するが、中曽根の巧妙な戦略とニューリーダーたちのひ弱さにより、結局は中曽根に指名権が握られる。世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、1987年(昭和62年)10月20日、中曽根は竹下を後継総裁に指名した(中曽根裁定)。この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼の秘書であった次男の晋三ら関係者は否定している。後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だった小泉純一郎が激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという[要出典]。 同年11月6日、竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。
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