外務大臣就任、条約改正交渉とは? わかりやすく解説

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外務大臣就任、条約改正交渉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 02:30 UTC 版)

青木周蔵」の記事における「外務大臣就任、条約改正交渉」の解説

外国人司法官任用問題」も参照 来島恒喜テロによって大隈遭難したあと、1889年明治22年12月24日第1次山縣内閣外務大臣に就任外相として「青木覚書」閣議提出して承認受けたこののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉進め1891年明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣留任領事裁判権撤廃条約改正奮闘した青木条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して対等合意」(外国人裁判官大審院への不採用外国人不動産領事裁判権撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。1890年明治23年7月10日貴族院子爵議員就任し1期在任した帝政ロシア東アジア進出することに不安を抱くイギリス日本好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉成功しかけたが、新条調印寸前1891年5月大津事件発生し引責辞任交渉中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵死刑確約しながら、判決無期懲役となり公使抗議訪れると、これを伊藤博文井上馨指示だと述べたことによって両名恨みを買うことになった相手公使対す通告内容に関する最終決定権大臣である青木にある)。1892年明治25年)、駐独公使としてドイツ赴任した後任外相には陸奥宗光抜擢され陸奥青木駐イギリス公使兼任させた。 1894年明治27年駐英公使として外相陸奥とともに条約改正尽力アレクサンダー・フォン・シーボルト通訳として日英通商航海条約改正成功した1898年明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任1900年明治33年)の義和団の乱対処列強動き敏感に察知し積極的な介入試みたこののち枢密顧問官務めた1906年明治39年)には駐米大使として移民問題解決つとめた1914年大正3年2月6日肺炎のため死去

※この「外務大臣就任、条約改正交渉」の解説は、「青木周蔵」の解説の一部です。
「外務大臣就任、条約改正交渉」を含む「青木周蔵」の記事については、「青木周蔵」の概要を参照ください。

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