外務大臣就任、条約改正交渉
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「青木周蔵」の記事における「外務大臣就任、条約改正交渉」の解説
「外国人司法官任用問題」も参照 来島恒喜のテロによって大隈が遭難したあと、1889年(明治22年)12月24日に第1次山縣内閣の外務大臣に就任、外相として「青木覚書」を閣議に提出して承認を受けた。こののち対英条約改正交渉をみずから指揮して駐日イギリス公使フレーザーとの交渉を進め、1891年(明治24年)、第1次松方内閣でも外務大臣を留任、領事裁判権撤廃の条約改正に奮闘した。青木の条約改正案は従来のものと異なり治外法権に関して「対等合意」(外国人裁判官の大審院への不採用、外国人不動産は領事裁判権を撤廃しない限り認めないことを明記)を目指した。1890年(明治23年)7月10日、貴族院子爵議員に就任し1期在任した。 帝政ロシアが東アジアに進出することに不安を抱くイギリスが日本に好意を持つなど、時勢にも恵まれ交渉は成功しかけたが、新条約調印寸前の1891年5月大津事件が発生し引責辞任、交渉は中断される。なお、この際ロシア公使に対して犯人津田三蔵の死刑を確約しながら、判決が無期懲役となり公使が抗議に訪れると、これを伊藤博文と井上馨の指示だと述べたことによって両名の恨みを買うことになった(相手国公使に対する通告内容に関する最終決定権は大臣である青木にある)。1892年(明治25年)、駐独公使としてドイツに赴任した。後任の外相には陸奥宗光が抜擢され、陸奥は青木に駐イギリス公使を兼任させた。 1894年(明治27年)駐英公使として外相の陸奥とともに条約改正に尽力、アレクサンダー・フォン・シーボルトを通訳として日英通商航海条約改正に成功した。 1898年(明治31年)、第2次山縣内閣では再び外務大臣に就任、1900年(明治33年)の義和団の乱に対処、列強の動きを敏感に察知し積極的な介入を試みた。こののち枢密顧問官を務めた。 1906年(明治39年)には駐米大使として移民問題の解決につとめた。 1914年(大正3年)2月6日、肺炎のため死去。
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