外務大臣として岸内閣に入閣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:29 UTC 版)
「藤山愛一郎」の記事における「外務大臣として岸内閣に入閣」の解説
1957年、戦前から藤山が資金援助していた岸信介は将来的な中華人民共和国との関係を重視していたことから「アジア外交のなかでも中共の問題をやってもらう」と請われ、民間人ながら岸内閣の外務大臣に就任し、財界二世である藤山の政界入りは当時「絹のハンカチ」と称された。秘書には慶應の後輩で自社社員の斎藤文夫(のちの参議院議員)を採用した。元々岸は対フィリピン賠償交渉で全権委員に抜擢するなど藤山を重用しており、藤山が産業界に明るいという理由から通産大臣として手腕を発揮してくれることを望み、藤山は岸の度重なる懇請にもかかわらず「産業界には知己が多すぎ、陳情攻めで大変だから」と言って通産大臣への就任を固辞し続けたとされる。就任と同時に持っていた外資系会社の株を全て売り払ったと伝えられ、日商会頭を初めとする202にも及ぶ経済界の要職も辞任した。その際の退職金が莫大なものとなったことから当時施行されていた高額納税者公示制度において1958年度の全国2位にランクされた。
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