外務大臣再任まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/21 01:59 UTC 版)
「ジョージ・カニング」の記事における「外務大臣再任まで」の解説
ポートランド公爵の後任スペンサー・パーシヴァル率いる内閣を支持し、議会でもたびたび戦争遂行を支持する演説をしたが、入閣は辞退した。 1812年にリヴァプール伯爵内閣が成立するとその外務大臣に誘われたが、カニングは庶民院院内総務の地位も要求し、これが認められなかったため、入閣しなかった。同年の総選挙でリヴァプール選挙区(英語版)に鞍替えして再選したが、しばらく再入閣できそうもないと考えて1813年にカニング派をいったん解散し、1814年にイギリスを離れてリスボンに向かった。リスボンに9か月間滞在した後、家族とともに南仏に移り、1816年夏に帰国した。 このときまでにカースルレー子爵と和解し、同年からインド庁長官として入閣できたが、カニングはキャロライン王妃と親しい関係にあったため、国王ジョージ4世(1820年即位)のキャロライン王妃への扱いに反発して1821年1月に辞職した。キャロライン王妃が1821年8月に死去すると、リヴァプール伯爵はカニングを呼び戻そうとしたが、ジョージ4世はカニングの謁見を拒否した。カニングは翌年にインド総督ヘイスティングス侯爵の後任としてインド総督に就任することが内定したが、出発する前にロンドンデリー侯爵(カースルレー子爵が1821年に継承)の自殺の報せが届いた。
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