外務大臣歴任とは? わかりやすく解説

外務大臣歴任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 15:04 UTC 版)

幣原喜重郎」の記事における「外務大臣歴任」の解説

外務大臣になったのは1924年大正13年)の加藤高明内閣最初であった以降若槻内閣1次2次)、濱口内閣憲政会立憲民政党内閣で4回外相を歴任した彼の1920年代自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され軍部軍拡自主路線田中外交」と対立したワシントン体制に基づき対米に対して列強協調を、民族運動高揚する中国においては、あくまで条約上の権益擁護のみを追求し東アジア特別な地位占め日本中心となって安定した秩序形成していくべきとの方針であった。そのため、1925年大正14年)の5・30事件においては在華紡在中国の日製糸会社)の中国人ストライキに対して奉天軍閥張作霖要請して武力鎮圧するなど、権益擁護はかっている。 1926年大正15年)に蔣介石国民革命軍率いて行った北伐に対しては、内政不干渉方針に基づきアメリカとともにイギリスによる派兵要請拒絶。しかし、1927年昭和2年3月南京事件発生すると、軍部政友会のみならず閣内でも宇垣一成陸相政策転換求めるなど批判高まったこうした幣原外交への反感金融恐慌における若槻内閣倒閣重要な要素となった1930年昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約締結させると、特に軍部からは「軟弱外交」と非難された。1931年昭和6年)夏、広東政府外交部長陳友仁訪日し張学良満洲から排除し満洲日本任命する政権の下において統治させ、中国間接的な宗主権のみを保持することを提案したが、幣原外相一蹴したその後関東軍独走勃発した満州事変収拾失敗し政界退いた幣原外交終焉文民外交終焉であり、その後軍部独断する時代終戦まで続いた。 なお、濱口内閣時代には、濱口雄幸総理銃撃による負傷療養間中宮中席次規定により次席であった幣原内閣総理大臣臨時代理務めた立憲民政党党員でなかった幣原臨時代理務めたことは野党立憲政友会批判の的となり、また同じく批判されロンドン条約については天皇による批准済みであると国会答弁したことが天皇への責任転嫁であると失言問題追及された。その際首相臨時代理在任期間116日は最長記録である。 第2次若槻内閣総辞職以降表舞台から遠ざかっていたが、南部仏印進駐の頃に近衛文麿今後の見通しを訊かれ、「南部仏印向かって出帆したばかりの陸軍船団をなんとか呼び戻せませんか?あるいは台湾留め置けませんか?それが出来ず進駐実現すれば絶対アメリカとの戦争避けられません」と直言し予言的中した逸話残っている。 第二次世界大戦末期1945年5月25日空襲により千駄ヶ谷自邸焼失多摩川にあった三菱系の農場移った

※この「外務大臣歴任」の解説は、「幣原喜重郎」の解説の一部です。
「外務大臣歴任」を含む「幣原喜重郎」の記事については、「幣原喜重郎」の概要を参照ください。

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