外務省と陸軍の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 23:31 UTC 版)
満鉄付属地の法的立場が明確ではないことと満鉄付属地外の新競馬場のトラブルを受けて、1925年(大正14年)関東庁は「競馬法二拠ラサル競馬許可二関スル件」という文章を奉天総領事館に送る。1924年(大正13年)に奉天競馬倶楽部に対して認可を与えたのは奉天総領事館つまり外務省だが、関東庁は「支那(中国のこと)側の干渉に対して牽制として関東庁は奉天競馬倶楽部に対して競馬法に拠らない競馬を許可する。」と通知したのである。 競馬場問題で外務省は中華民国との更なるトラブルを避けようと動いた。当時の外務大臣は幣原喜重郎と国際協調派の人物だったこともある。奉天総領事吉田茂は奉天競馬場を日中合弁とすることで丸く収めようとするが、日本の刑法(賭博の禁止)の絡みから日中合弁方式は行き詰る。 翌々年の1927年(昭和2年)、奉天競馬場問題で関東庁と外務省は対立する。 外務省は内地の競馬法は刑法の付属法なので属人法として満鉄付属地にも適用され、また満鉄付属地に対する関東庁の行政権は警察に関することだけで、それ以外については関東庁は権限を持たないと主張し外交上の問題だとして外務省に権限があるとし、関東庁は競馬法は刑法の付属法ではなく行政法なので満鉄付属地には適用されず、また満鉄付属地に適用すべき法律もないので関東州競馬令を拡大して満鉄付属地に適用するべきと主張した。 外交上の摩擦を生じてでも満州における日本の権益を拡大させたい関東庁・関東軍・満鉄と外交上の無用な摩擦を避けたい外務省の対立である。 満鉄付属地の行政権をめぐって関東庁と外務省が対立しているさなか、1927年(昭和2年)、時の首相は田中義一に代わる。田中義一は外務大臣を兼任し、対中国を強硬な方針で臨んだ。そして1928年(昭和3年)ハルビン競馬場問題が起こる。日本人が借地していたハルビン競馬場を中国の利権回収運動によって中国官憲が差押えたのである。この事態に田中義一は激怒し、満鉄付属地競馬場問題から国際協調姿勢の外務省の手を引かせ、満鉄付属地競馬場は関東庁の権限下に置かれる。
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