政界への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:14 UTC 版)
「ライナー・バルツェル」の記事における「政界への道」の解説
東プロイセンのブラウンスベルク(現ポーランド・ヴァルミア=マズールィ県ブラニェヴォ)生まれ。7人兄弟の5番目で、父親は教師、敬虔なカトリック信徒の家だった。父の転勤により少年時代にベルリンに転居、イエズス会系の学校に通う。第二次世界大戦中の1941年にギムナジウムを仮卒業して海軍航空隊に入隊。フレンスブルク、ノルウェー、ウクライナなどに駐屯した。とりわけセヴァストポリからの撤退の際は、彼の操縦する飛行機が40人以上の兵士を救った。戦争末期はキールで操縦教官を務め、最終階級は予備役少尉だった。最終駐屯地であるレンツブルクでイギリス軍に降伏したが、イギリス軍指揮官が戦時中にレンヅブルク上空で撃墜されたものの住民に匿われたことに報いて寛大な処置をとったため、バルツェルは捕虜収容所に入らずに済んだ。なお戦後の再軍備でドイツ連邦軍が創設された際も、バルツェルは海軍予備役中尉となっている。 終戦直後に婚約者の両親がいるケルンに赴き、(未来の)義理の父親の金銭援助を得てケルン大学で法学と経済学を学ぶ。1948年に彼女と結婚。1949年に法学博士号を取得。国家司法試験は受けずにノルトライン=ヴェストファーレン州政府に就職した。フランクフルト・アム・マインにある州代表部に勤務し、1953年にボンにある連邦政府の州政府連絡部長。1952年から1955年にはルクセンブルクにおける欧州石炭鉄鋼共同体に関する交渉に加わった。1955年にノルトライン=ヴェストファーレン州首相カール・アルノルトの補佐官兼演説原稿執筆者となるが、翌年アルノルトが州首相の座を追われたため以後はドイツキリスト教民主同盟(CDU)での政治活動に専念するようになった。ただし1973年に弁護士資格を取得している。 バルツェルは本来戦前からのカトリック政党中央党を支持していたが、その再建がかなわないことが明らかになると1954年にドイツキリスト教民主同盟に入党。すぐにノルトライン=ヴェストファーレン州における党執行部委員となった。1957年にドイツ連邦議会議員に初当選。当初はかつての上司カール・アルノルトと共にCDU左派と目されていたが、1958年にアルノルトが死去すると保守派の大物フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスに近い反社会主義の立場をとるようになった。シュトラウスやバルツェルの委員会は西ドイツ国内の容共的な人物450人を「赤書」にリストアップしたが、アメリカ合衆国の反共主義者ジョセフ・マッカーシーを思わせるそのやり方がマスコミに批判されたために公表を控えた。 1960年に党連邦執行部入り。死刑制度復活や、ドイツ社会民主党(SPD)を支持するドイツ労働組合連合(DGB)に対抗する労働組合の設立、そしてCDUのカトリックへの回帰などといったキャンペーンを繰り広げた。1962年にドイツ問題相として第五次コンラート・アデナウアー内閣に初入閣、もっとも若い閣僚となった。首相がルートヴィヒ・エアハルトに代わったのちの1964年に党連邦議会議員団長に就任。1966年の党大会では党首の座を賭けてエアハルト首相と争うが敗北、第一副党首となる。直後に連立相手の自由民主党(FDP)と決裂してエアハルト内閣が倒れ、首相の座を狙える位置につけたが、SPDとの大連立を主張するクルト・ゲオルク・キージンガーの前に敗れた。1969年にキージンガーが首相の座をSPDのヴィリー・ブラントに追われると、現実主義を主張して与党に理解を示すことが度々あり、キージンガー党首やシュトラウスと対立するようになった。
※この「政界への道」の解説は、「ライナー・バルツェル」の解説の一部です。
「政界への道」を含む「ライナー・バルツェル」の記事については、「ライナー・バルツェル」の概要を参照ください。
政界への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 16:51 UTC 版)
「チャートチャーイ・チュンハワン」の記事における「政界への道」の解説
1972年、タノーム・キッティカチョーン政権の副外務大臣に任命され、政界へのリベンジを果たす。同年12月28日、パレスチナのテロ組織・黒い九月が在バンコクイスラエル大使館人質事件(英語版)を引き起こすと、農業大臣ターウィー・チュンラサップ(英語版)とともにテロリストと交渉した。イスラエルの外交官の釈放と引き換えに、彼ら自身が身代わりとなり、カイロへの飛行で実行犯らに同行した。 チャートチャーイは1973年の血の日曜日事件の後も外務次官を務め、サンヤー・タンマサック(英語版)の暫定閣僚を務めた。1973年12月、ターウィー国防相とともに北京を訪問。これはタイが正式に中国との外交関係を確立する1年半前のことで、また北京を訪問した最初のタイ政府高官であった。そこで、彼らは「友好価格」で5万トンのディーゼル油を供給する契約を交渉し、両国間の貿易障壁を取り除くことを約束した。のちタイ・中国友好協会を組織し、北京との関係を梃子にポル・ポト政権下のカンボジア観光事業を手がける。 1974年、同じく軍出身のプラマーン・アディレクサーン(英語版)、シリ・シリョーティン(タイ語版)と反共保守政党としてタイ国民党を立ち上げる。軍事独裁政権終了後初の民主的選挙となる1975年タイ総選挙(英語版)では、民主党に次ぐ第3議席を獲得。チャートチャーイも本選挙でナコーンラーチャシーマー県の選挙区を代表する国会議員に選出された。タイ国民党はククリット・プラーモートの下で政府連合に加わり、チャートチャーイは1975年3月17日から1976年4月21日まで外務大臣を務めた。1976年4月の総選挙(英語版)でタイ国民党が議席のシェアを大幅に拡大した後、チャートチャーイは1976年10月の血の水曜日事件の後に軍事クーデターによって打倒されるまで、セーニー・プラーモート内閣の産業大臣だった。 80年から83年までの間、プレーム・ティンスーラーノン内閣の下で産業大臣を務める。その後3年間野党に転落したが、1986年の総選挙の際に与党再選を見越し陸軍司令官チャワリット・ヨンチャイユットの意向で、プレームにも軍にも受けのいい人物として反プレーム色の強かったプラマーンに代わりタイ国民党党首に選ばれる。選挙後、与党復帰に伴いチャートチャーイはプレーム内閣の副首相になった。
※この「政界への道」の解説は、「チャートチャーイ・チュンハワン」の解説の一部です。
「政界への道」を含む「チャートチャーイ・チュンハワン」の記事については、「チャートチャーイ・チュンハワン」の概要を参照ください。
- 政界への道のページへのリンク