血の日曜日事件
血の日曜日事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/14 13:06 UTC 版)
血の日曜日事件(ちのにちようびじけん)、血の日曜日、ブラッディ・サンデイ(英語: Bloody Sunday)は、日曜日に発生した流血事件(虐殺事件や暴力的弾圧など)を指すのに用いられる語。
19世紀
- 血の日曜日事件 (1887年) - 1887年11月13日にロンドンで発生した暴動。
- 血の日曜日 (1900年) - 1900年2月18日、ボーア戦争中、大英帝国側で一日あたり最悪の死傷者を数えたパールデベルクの戦いの初日を指す。
20世紀
- 血の日曜日事件 (1905年) - 1905年1月9日(ロシア旧暦、1月22日(グレゴリオ暦))のサンクトペテルブルクにおけるデモの弾圧事件。
- 血の日曜日事件 (1913年) - 1913年8月31日、ダブリン・ロックアウトの際にダブリンで起きた事件。
- 血の日曜日事件 (1920年) - 1920年11月21日にダブリンで起きたイギリス軍とアイルランドによる一連の事件。
- 血の日曜日事件 (1932年) - 1932年7月17日にドイツ・プロイセン州アルトナでナチスの突撃隊に共産党員が発砲した事件。
- ビドゴシチ住民殺害事件 - 1939年9月にドイツのポーランド侵攻に際してビドゴシチでワルシャワ包囲中に起きたといわれる虐殺事件(ブロンベルク血の日曜日事件)。
- 十二月事件 - 1944年12月3日、アテネで発生した左派組織と親英派政府・駐留英軍との衝突(シンタグマ広場の血の日曜日事件)。その後のギリシャ内戦の前史となる。
- 血の日曜日事件 (1965年) - 1965年3月7日、アメリカの公民権運動に関連して起きた事件。
- 血の日曜日事件 (1969年) - 1969年2月16日、イスタンブールにアメリカ海軍第6艦隊が来航した際、帝国主義と植民地主義に抗議するために催された集会及び示威行進を鎮圧する際に起きた騒乱事件。
- 血の日曜日事件 (1972年) - 1972年1月30日、北アイルランド紛争に関連してロンドンデリーで起きた事件。
- ブラディ・サンデー - 上記事件を取り上げた2002年の映画。
- ブラディ・サンデー (U2の曲) - 上記事件をテーマにしたU2の曲。
- 血の日曜日事件 (1973年) - 1973年10月14日、タノーム軍事政権の強権独裁化に民主憲法の回復と制定を要求した市民抗議運動に対しバンコクで政権側が武力弾圧した事件。ほかに学生革命、学生クーデターやシップシー・トラー(タイ語で「大いなる悲しみの日」)と呼ぶ。
- 六四天安門事件 - 1989年6月4日、中華人民共和国北京で民主化を求めて集結していた学生のデモ隊に対し軍隊が武力行使し、多数の死傷者を出した事件。
- 血の日曜日事件 (リトアニア) - ソビエト連邦政府が1991年1月8日にリトアニアのヴィリニュスにアルファ部隊を派遣して制圧を図り、1991年1月13日にテレビ局などを襲撃した事件。
関連項目
血の日曜日事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 14:41 UTC 版)
「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事における「血の日曜日事件」の解説
「血の日曜日事件 (1905年)」を参照 1905年1月9日、莫大な日露戦争の戦費や、敗北に次ぐ敗北で戦役に苦しんだ民衆が、皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルクの冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000 - 3,000人の死者と1,000 - 2,000人の負傷者を出した(血の日曜日事件)。 日露戦争の敗戦による威信の低下に加え、皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去り、国民統合の象徴としての存在感を失った。この事件を受けプレーヴェ暗殺後に内相を務めていたスヴャトポルク=ミルスキーを解任して、後任にアレクサンドル・ブルイギンを任命した。さらに2月には自身の叔父にして副都モスクワの総督を務めるセルゲイ大公が暗殺された。
※この「血の日曜日事件」の解説は、「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の解説の一部です。
「血の日曜日事件」を含む「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の記事については、「ニコライ2世 (ロシア皇帝)」の概要を参照ください。
- 血の日曜日事件のページへのリンク