事件の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 15:59 UTC 版)
「ネパール王族殺害事件」の記事における「事件の結果」の解説
国王ビレンドラが立憲君主制を推進した名君として国民に慕われていた中で、国王や王妃、王太子、王族が多数死亡しただけでなく、ギャネンドラによるクーデターではないのかとの陰謀説も飛び交い、王室の威信は大いに失墜した。また、マオイストがこの事件以降の政情不安の増大に乗じて、さらに攻勢を強める結果となった。 事件でビレンドラが即死したため、陸軍病院に搬送されていたディペンドラが意識不明のまま王位を継承し、ギャネンドラが摂政となった。6月4日未明、ディペンドラが崩御し、その日のうちにギャネンドラの王位継承が国家評議会によって認められた。ネパール王国は初代プリトビ・ナラヤン・シャハの創始以来、王位は一貫して父から子へと継承されてきたが、傍系からのギャネンドラの継承は王国の政体に変質を生じさせた。 しかし、かねてから兄の民主化政策に反対していたギャネンドラの信望は低かったために、その継承は祝福されず、国王らの崩御に不信感と疑惑を持つ民衆らが首都カトマンズに集結し、ギャネンドラ即位の反対集会が開かれ、警官隊と衝突して死者が出る騒ぎとなった。また、事件の真相を新国王によるクーデターと訴えたバッタライは反逆罪に問われ、彼の論評を掲載した『カンティプル』の編集長も逮捕された。後日、ネパール政府は人権団体や米国の批判を受けて、編集長を釈放した。ビレンドラ在位の頃からネパールでは高度な言論の自由・報道の自由が憲法で保障されていたため、このことも国民に衝撃を与えた。当時のネパール王国首相コイララは危機管理能力の欠如を露呈し、さらに批判された。 コイララは2001年7月、内戦にはじめて軍を動員した後、首相を辞任した。 ギャネンドラは王位についたものの、議会政治のままではマオイストの制圧が進まないと主張し、11月26日に非常事態宣言を発令、2002年5月には下院を解散し首相を解任、内閣を側近でかため、更に2005年には全閣僚を解任して直接統治を宣言するなど専制に走った。だが、只でさえ人望の無かったギャネンドラは結局、この事で国内外からの強い反発を招き、却って野党や反体制派を団結させた上にマオイストも勢いづかせたばかりか、2006年4月以降の大規模な民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)への引き金を引いてしまった。また、父の進めた民主化を真っ向から否定するような反動政策から「事件の犯人はディペンドラではなく、居合わせなかったギャネンドラがパラスに行わせたに違いない」とネパールの民衆は信じるようになった。 民主化運動が全国的な勢いを得た結果、ギャネンドラも要求を受け入れざるを得なくなり、2006年5月18日に国王の政治的特権はすべて剥奪、元首ですらなくなった。さらに2008年5月28日、制憲議会で共和制が議決、王制は廃止されギャネンドラは退位することになり、ネパール王国(ゴルカ朝)は終焉した。しかし、ギャネンドラは王宮退去の際のテレビ演説で、王族殺人事件への関与を改めて否定した。
※この「事件の結果」の解説は、「ネパール王族殺害事件」の解説の一部です。
「事件の結果」を含む「ネパール王族殺害事件」の記事については、「ネパール王族殺害事件」の概要を参照ください。
事件の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 06:42 UTC 版)
乙巳士禍で政権を掌握した尹元衡は、1547年にも良才駅壁書獄(中国語版)(양재역 벽서 사건)を起こして、先の事件で生き残った良識派の士林勢力をも一掃し(정미사화、丁未士禍)、権力を独占した。尹元衡は国王の外戚として、文定王后存命中はその栄華を極めたといわれるが、文定王后の死により、その側室・鄭蘭貞とともに政権を追われ、自害した。
※この「事件の結果」の解説は、「乙巳士禍」の解説の一部です。
「事件の結果」を含む「乙巳士禍」の記事については、「乙巳士禍」の概要を参照ください。
事件の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 02:45 UTC 版)
これにより、福岡藩は幕末の政権交代において大きく出遅れ、佐幕派の家老たちも切腹させられ、戊辰戦争の際に兵を率いる人材が全くおらず、博徒や喧嘩好き、戦争好きばかり集まる有様となった。福岡藩兵は、大砲の音を聞けば逃げ回り、略奪ばかりする質の悪さを露呈し、旧幕府軍から笑われ、東北諸藩民の怒りを買い、官軍すら扱いかね、いつも最前線に回されることになった。 そもそも福岡藩では、薩摩や長州、佐賀などのような軍備の近代化が出来ていなかった。ペリー来航を受けて蘭学振興や洋式兵法を説く藩主長溥を、加藤司書は「殿様は愚昧だから」と切り捨て、蘭学を無視して国学に傾倒し、尊皇攘夷を唱え、月形深蔵・洗蔵ら筑前勤王党、39派もあった砲術師範も結束して洋式兵法の導入を阻止していた。薩摩・長州が実際に外国と戦い、留学生を送り、近代兵器を導入し軍備を調えた上での攘夷であったのに対し、福岡の尊皇攘夷派は、代表的な扇動者であった福岡藩士平野国臣やその同志で久留米藩の真木和泉にしても洋学や欧米のことには無知で極端な尚古主義者であり、観念的攘夷論者であった。福岡藩や、その支藩である秋月藩も、藩全体が変革を嫌い伝統的古法に固執した守旧的な士風であり、新時代を率いる人材がいなかったのである。 また、戊辰戦争での出兵費用がかさみ、多額の負債を負い、贋札偽造をしていたのを告発されて懲罰で知藩事は罷免され、福岡藩は国内有数の大藩でありながら、廃藩置県を待たずして事実上の廃藩となった。また、贋札偽造に関わった関係者は切腹させられるなどした。 ちなみに、隣の佐賀藩では福岡藩同様、薩長の討幕運動に距離を置いていて新政府に疑いをかけられていたが、最新式の軍備を調えていて戊辰戦争で大いに戦功を挙げ、多数の人材を新政府に送り込み、後発でありながら薩長土肥と称される一角となっている。同じように長崎警備で最新の西洋文化に触れる大藩で開明的な藩主を戴きながら、戊辰戦争で時代錯誤な軍装で醜態を晒した福岡藩とは対照的な結果になった。 維新に乗り遅れた福岡藩は、新政府に登用される人材もなかったが、長溥は維新後、藩士の子弟の留学を支援し、そこから金子堅太郎、團琢磨を輩出した。また福岡藩士の系統は頭山満の玄洋社設立に現れてくる。
※この「事件の結果」の解説は、「乙丑の獄」の解説の一部です。
「事件の結果」を含む「乙丑の獄」の記事については、「乙丑の獄」の概要を参照ください。
事件の結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 03:47 UTC 版)
同日に起きたレディバード号事件もあって、日本側の攻撃を故意と解釈した報道もあり、さらに12月30日にはパナイに便乗していたプロニュースカメラマン、ノーマン・アレーの撮影したニュース映画が公開され、英米国民の対日感情を悪化させた。 しかし未だアメリカの新聞の論調は、直接介入を主張するものは少なく、その多くは対日強硬策を支持するものの、論説は非常に穏やかなものであった。反対に、孤立主義の立場から、アメリカ勢力の完全撤退論を主張するものもあった。1938年1月のギャラップ調査によると、約70%のアメリカ人が中国からの完全撤退を望み、孤立主義的態度を示していた。 ルーズベルトはこの事件に激怒していたが、隔離演説で予想を上回る反発が世論に起きたのを反省していたこともあり、また日本側が早急に謝罪と賠償請求を受けたため、開戦どころか強硬手段には至らなかった。
※この「事件の結果」の解説は、「パナイ号事件」の解説の一部です。
「事件の結果」を含む「パナイ号事件」の記事については、「パナイ号事件」の概要を参照ください。
- 事件の結果のページへのリンク