事件の結末と余波
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 03:00 UTC 版)
「大宰相府襲撃事件」の記事における「事件の結末と余波」の解説
キャーミルの辞表は同日中にスルタン・メフメト5世に受理され、承認された。キャーミルの辞任をメフメト5世がすぐに認めた背景には、オスマン・トルコ語のみを解すスルタンが、親英国派のキャーミルを嫌っていたためであるという説が存在する。後任の大宰相には陸軍の重鎮であるマフムト・シェヴケット・パシャが選出され、ただちにバルカン同盟への反攻作戦が立案された。 また、大宰相府の襲撃と並行して統一派の幹部であるアフメト・ジェマルらがイスタンブルの主要官庁を襲撃し、警察機構や憲兵隊などを掌握した。 その後、オスマン帝国はロンドン講和会議を破棄して第一次バルカン戦争を再開し、エンヴェルはシャルキョイで陸海軍を統合した一大反攻作戦を実施したが、結局戦局は好転せずに敗北し、5月30日に再びロンドン条約を締結して第一次バルカン戦争に敗戦する。クーデターを実施してまで再開した戦争に敗北したことで統一派は反対勢力から批判を集めたが、1913年に大宰相マフムト・シェヴケット・パシャが何者かに暗殺されると、統一派は暗殺の犯人を分権派と断定して彼らを弾圧し、反対派を一掃した。 更に、6月29日から始まった第二次バルカン戦争ではエンヴェルがブルガリアに割譲したエディルネの奪還に成功して「エディルネの征服者」と呼ばれるまでの名声を得たために、統一派の基盤は絶対的なものとななる。そしてマフムト・シェヴケット・パシャの暗殺後に選出されたサイード・ハリム・パシャはエジプトのムハンマド・アリー朝の出であると同時に、統一派の会員でもあったため、サイード・ハリム・パシャ内閣の成立によって統一派の独裁体制が完成した。 大宰相府襲撃事件はバルカン戦争の対応を巡って発生したクーデターであったが、一方で1908年の青年トルコ人革命以降のオスマン帝国第二次立憲政の政治闘争の一つの決着という側面も併せ持っていた。大宰相府襲撃事件によって武力で政府を掌握した統一派は、その後の一連の動きで独裁体制を完全に構築し、大宰相府襲撃事件は第一次世界大戦やその後のトルコの独立戦争に至るまでの長い歴史の端緒となったのである。
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