事件の背景としての鉄道事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 14:20 UTC 版)
「信玄公旗掛松事件」の記事における「事件の背景としての鉄道事業」の解説
「日本の鉄道史」、「鉄道と政治」、および「笹子トンネル (中央本線)#建設の背景」も参照 1872年(明治5年)に新橋駅 – 横浜駅間が開業されたのを皮切りに、日本の各地では鉄道が急速に発展していった。当初、政府主導で始まった鉄道事業だが、企業家を中心とした鉄道会社設立によって民間での敷設の動きが始まった。当時の鉄道は、企業家が競って投資の対象とするほど、将来の発展が約束された魅力的な産業でもあった。 中央本線の敷設については、東京から立川方面へ鉄道を敷設する民間会社甲武鉄道が1886年(明治19年)に設立され、3年後の1889年(明治22年)4月11日に、新宿駅 - 立川駅の区間で開業し、同じ年の8月11日に八王子駅まで延伸された。この甲武鉄道は甲州財閥と呼ばれる山梨県出身の実業家、雨宮敬次郎と若尾逸平を中心として設立されたもので、社名の甲武鉄道とは甲州(現・山梨県)と武州(現:東京都)を結ぶことを目的としたものであった。 一方で、これら私設鉄道(私鉄)の計画が日本全国で過熱気味になり、中には投機目的の誇大な計画が増えるなど問題化し始めた。この流れを受けて、幹線鉄道はなるべく国が主体となって設けるべきとの方針を国は取るようになる。そして1892年(明治25年)に制定された鉄道敷設法へ、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布へと、私鉄国有論は台頭していった。鉄道敷設を取り巻くこのような流れの中、甲武鉄道として八王子まで開業していた中央本線は、八王子から西は国が主体となって建設する方針が取られた。1896年(明治29年)、八王子駅 - 塩尻駅(現・長野県塩尻市)間の工事が開始され、難工事の末に貫通した笹子トンネル等の完成により、1903年(明治36年)6月11日に甲府駅まで、同年12月15日に韮崎駅まで開通し、韮崎から県境を越えた富士見(現・長野県諏訪郡富士見町)までの区間は1904年(明治37年)12月21日に開通した。信玄公旗掛松事件で問題となった日野春駅は、この「韮崎 - 富士見」の区間に所在する。次いで1906年(明治39年)10月1日、国は甲武鉄道(新宿 - 八王子)を買収し、八王子から西の国有鉄道と一体化され、今日の中央東線の原型となった。
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