事件の背景と性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 10:07 UTC 版)
日清戦争が終わると、日本とロシアが朝鮮半島の支配権を争うことになった。日本側は大院君に接近し、これに対して閔妃は、日本人の影響下にあった訓練隊を解散しロシアの教官による侍衛隊に置き換えようとしたので日本公使館は危機感をもっていたのである。 興宣大院君と閔妃の深い対立 事件の背景には、興宣大院君と閔妃の権力闘争(大院君が閔氏一族によって摂政の座を追われた1873年の最初の失脚以来、20年以上にわたって凄惨な権力闘争を繰りひろげていた)、改革派(開化派)と守旧派(事大党)の路線闘争、さらに朝鮮半島をめぐる日本の安全保障問題、日本と清の覇権争い、日清戦争後の日本とロシア帝国の覇権争いがあった。そのため、日本公使・三浦梧楼らの主導による親露派の閔妃を排除するためのクーデターとする説が日本における歴史研究のほとんどで採用されているとの見解があり、歴史事典の多くがこの説を明記している。 朝鮮側の関与については、朝鮮王室内部クーデターに見せかける意図で興宣大院君や朝鮮の訓練隊が利用されたとする説の他、朝鮮側が首謀しているとする説や決定的証拠がなく不明とする見解が存在している(#朝鮮政府内部首謀説参照)。 事件直後に行われた朝鮮国内の裁判では、興宣大院君を事件の首謀者とする朝鮮王朝内の権力闘争としての判決が出ている。
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