朝鮮政府内部首謀説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:07 UTC 版)
事件直後に朝鮮政府は朝鮮国内で行った裁判で興宣大院君(高宗の父)の首謀とする判決が出たことや、朝鮮人実行犯の証言等から、事件の首謀者を大院君とする見解は根強く、また閔氏一族の横暴や怨嗟の声が国中に満ちていることを憂慮していた朝鮮人らが積極的に参加していたとの見解や、決定的な証拠がないため不明とし、実行犯が日本人か朝鮮人かを巡って、小説やノンフィクション、テレビドラマなどで現在でも様々な意見や主張が出されているとも言われる が、ほぼ全て日本人で描かれている。 金弘集政権は事件後、大院君に責任があるとし、大院君を宮闕外に退かせること、王妃を復位すること、関係者を処罰することが重要であるとして、これを内閣に提出している。兪吉濬によれば、これは大院君にすべての責任を負わせて、政権が責任を免れようとしていたものとし、その一方で兪吉浚はアメリカ人牧師モールスに送った手紙に、「大院君が日本公使館に頻繁に出入りして、閔妃殺害協力を日本に要請したのは大きな間違いだ」と書いていた記録が残っている。 『日本と韓国』の著者であり、終戦時には全羅南道の知事であった八木信雄は、閔氏政権が訓練隊を解散させようとし、事件前日の10月7日に解散通告をしてきたため、訓練隊の幹部が閔妃勢力との決闘を決意し、閔妃の政敵である大院君の力を借りて事を進めようとしたが、これを知った三浦が岡本を大院君のところへ送り、共にクーデターを決行しようという密約を結んだと述べている。また、事件直後の内田定槌による報告では「今回の事変は全く大院君及三浦公使の計画に基きたるもの」と両者の計画であったしており、これらの報告に沿って、日本国内における裁判では三浦と大院君との密約が事実として述べられている。しかし、三浦は事件直後に「何か特約でもあったことか」と明治天皇の言葉を伝えた侍従・米田虎雄に対して「(大院君は)唯自分の言ひなり次第になった訳で、約束も何もない」と答えたと晩年に回想している。 他にも大院君が事件に強く関わっていたとする次のような言及がある。 19世紀末にロシア人ゲ・デ・チャガイが編集した『朝鮮旅行記』の『1895年-1896年の南朝鮮旅行』の章に、ロシア参謀本部のカルネイェフ中佐が「1895年11月26日に実行された王妃暗殺では、間違いなく大院君がかなりの役割を演じていた」と発言していたことが記述されている。韓国の独立運動家にして大韓民国臨時政府第2代大統領だった朴恩植も閔妃暗殺犯を興宣大院君だと指摘した。
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