朝鮮旅行から帝展改組まで
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1925年(大正14年)4月、南薫造と共に朝鮮に赴き京城、開城、平壌など各地で制作する傍ら、朝鮮総督府より朝鮮美術研究の委嘱を受けた。同年、雑誌『中央美術』に槐樹社展評論を寄稿したり、水戸常総新聞主催による常総洋画展に師岡田三郎助および山本鼎らと出席し「水辺の初冬」を特別出品した。また5月には第4回朝鮮美術展の審査員を務めた。同年、明治神宮外苑聖徳記念絵画館壁画揮毫を依嘱され、1936年(昭和11年)に完成している。 朝鮮美術展ではその後1926年(大正15年)第5回展、1927年(昭和2年)第6回展でも審査員を務めた。 1927年(昭和2年)6月開催の朝日新聞社主催による17万人を超える入場者を集めた明治大正名作展に辻の「無花果畑」「ベルギーにて」が選出された。 1929年(昭和4年)2月の第16回光風会展に「春の日」など7点を出品し、また同展特別陳列故山本森之助への追悼文が2月4日付の読売新聞紙面に掲載された。同年8月、弟の衛が自動車事故で死去。この年には昭和御大礼奉祝に、保田善次郎献上として「放牧」を描いた。 1930年(昭和5年)、第2回聖徳太子奉讃美術展にて審査員を務め、同展に「湖畔の秋」を出品。1931年(昭和6年)には平凡社より30年間の写生植物画のうち約1,000種を選出した『萬花図鑑』全8巻が刊行した。 1932年(昭和7年)6月より国立公園協会の依頼により北海道の釧路および阿寒湖付近に写生旅行し、「摩周湖風景」「阿寒双湖台より」などを制作した。このとき赴いた無名地にそれぞれ「双湖台」「又嶽台」と命名している。同年10月、再び平凡社より約500種の花写生画を収録した『續萬花図鑑』4巻を刊行した。 1933年(昭和8年)2月、光風会評議員に就任。1934年(昭和9年)10月、第15回帝展審査員となり、同展出品作「哈爾賓風景」が政府買い上げ。1935年(昭和10年)には東京地方裁判所に依頼された風景画が完成し、以後同所に展示されている。 1935年(昭和10年)6月の帝展改組に対し小林萬吾、石川寅治、金山平三、田辺至らと共に不出品の声明を発表し、また辻は雑誌『現代美術』に随筆「チビの死」を発表した。翌7月には帝展反対を表明する新団体「第二部会」を結成しており、同年10月の第二部会第1回会展審査員を務めた。
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