朝鮮政府の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 02:07 UTC 版)
朝鮮では閔妃暗殺の2日後(10月10日)、閔妃の死亡が一般に公表される前に大院君が閔妃の王后の地位を剥奪し、平民に落とす詔勅が公布される。なおこの時、閔妃の死亡はまだ公表されていない(その後、小村壽太郎の助言もあり、11月26日に再び王后閔氏に復位している)。 朝鮮の裁判では、「王妃殺害を今回計画したのは、私です」と証言した李周会(前軍部協弁=次官)をはじめ、朴銑(日本公使館通訳)、尹錫禹(親衛隊副尉)の3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に処刑した。 高宗は露館播遷後に事件についての再調査を実施し、事件が日本人士官の指揮によるものであること、日本人壮士らによって閔妃が殺害されたこと、「朝鮮人の逆賊」が日本人を補助していたことなどを調査結果としてまとめ、ソウルで発行されていた英文雑誌に掲載した。 史料によると高宗と純宗は殺害現場にいたことが記録されている。 高宗は1906年、韓国統監代理・長谷川好道を謁見した際に「我臣僚中不逞の徒」(私の部下の中に犯人が居た)と述べており、また、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙羲淵(当時軍部大臣)、禹範善(訓錬隊第二大隊長)、李斗璜(訓錬隊第一大隊長)、李軫鎬(親衛第二大隊長)、李範来(訓錬隊副隊長)、権濚鎮(当時警務使)の6名について、「王妃を殺害した張本人である」として処刑を勅命で命じている。 殺害現場にいた純宗は、「乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇」と禹範善が「国母ノ仇」であることを目撃したと報告しており、また禹範善自身も「禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ」と自らが閔妃を殺害したと自白している。禹は、純宗が放ったとされる刺客、高永根と魯允明によって広島県呉市において1903年(明治36年)11月24日暗殺され、1907年2月4日、広島控訴院で高永根は無期、魯允明は12年の刑が言い渡された。同年に統監府は趙羲淵以下6名を特赦することを決定したが、その際、純宗は「閔妃殺害の犯人である禹を殺した高永根を特赦すれば、乙未事件はここで初めて解決し、両国間数年の疑団も氷解する」として高永根も特赦するよう要求している。
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