朝鮮改革運動支援と対清主戦論とは? わかりやすく解説

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朝鮮改革運動支援と対清主戦論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)

福澤諭吉」の記事における「朝鮮改革運動支援と対清主戦論」の解説

明治15年1882年)に訪日した金玉均やその同志朴泳孝親交深めた諭吉は、朝鮮問題強い関心を抱くようになった諭吉考えるところ、日本軍備日本一国のためにあるのではなく西洋諸国侵略から東洋諸国保護するためにあった。そのためには朝鮮における清の影響力排除することで日本朝鮮近代化改革指導する必要がある考え日本国内で最も強硬な対清主戦論となっていった。 明治15年1882年7月23日壬午事変勃発し朝鮮日本公使館襲撃される事件があり、外務卿井上馨朝鮮政府謝罪賠償日本公使館護衛兵を置くことを認めさせた済物浦条約締結した。清はこれによって日本朝鮮への軍事的影響力が増すことを恐れたが、諭吉はこの一連の動きに満足の意を示すとともに、清が邪魔してくるようであればこれを容赦すべきではないと論じた明治15年10月朝鮮からの謝罪使が訪日したが、この使節団朴泳孝正使金玉均副使一人であった朴泳孝帰国に際して諭吉推薦する慶應義塾出身牛場卓蔵朝鮮政府顧問迎えている。 朝鮮宗主権喪失恐れる清は、袁世凱率いる3,000の兵を京城派遣し、これによって朝鮮政府内は事大党(清派)と独立党日本派)と中間派に分裂独立派の金・は、明治17年1884年12月4日甲申事変起こすも、事大党要請応えた清軍の出動政権掌握失敗した。この騒乱の中で磯林真三大尉以下日本軍40人ほどが清軍や朝鮮軍殺害され、また日本人居留民中国人朝鮮人殺傷略奪受けた。 この事件により日本国内主戦論高まりその中でとりわけ強硬に主戦論唱えたのが諭吉だった。このころ諭吉連日のように時事新報でこの件について筆をとり続け、「我が日本国不敬損害加へたる者あり」「支那兵士の事は遁辞設け由なし」「軍事費支弁用意早計ならず」「今より其覚悟にて人々労役増して私費減ず可し」「戦争となれば必勝の算あり」「求る所は唯国権拡張一点のみ」と清との開戦強く訴えた。また甲申事変失敗日本亡命した金玉均を数か月の間、三田邸宅に匿まった。 このときの開戦危機は、明治18年1885年1月朝鮮政府外務卿井上馨との交渉の中で謝罪賠償を行うことを約束したことや、4月日清間で日清揃って朝鮮からの撤兵約した天津条約結ばれたことで一応の終息をみた。しかし、主戦論者の諭吉はこの結果を清有利とみなして不満を抱いたという。 当時諭吉真意は、息子福沢一太郎宛て書簡1884年12月21日)に、「朝鮮事変之実を申せバ、日本公使幷ニ日本兵ハ、十二月六日支那兵之為ニ京城を逐出され仁川逃げたる訳なり。日支兵員多寡ハあれ共、日本人支那人負けたと申ハ開闢以来初て之事なり。何れただニては不相済事ならん。和戦分れハ、今後半月一月中ニ公然たる事ト存候。」に窺える

※この「朝鮮改革運動支援と対清主戦論」の解説は、「福澤諭吉」の解説の一部です。
「朝鮮改革運動支援と対清主戦論」を含む「福澤諭吉」の記事については、「福澤諭吉」の概要を参照ください。

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