朝鮮戦争期の政争
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朝鮮戦争の最中でも、李は野党の弱体化を目論見、野党の民国党のスポンサー的存在だった湖南財閥の中核・京城紡織(京紡)の預金引き出しを停止する[要出典]。このため京紡は李派に資金供給先を変更し、民国党は強力な経済的基盤を失うこととなる。 1952年1月18日には李承晩ラインを宣言した。このラインが撤廃(日韓基本条約)されるまでの13年間に、日本漁船の捕獲事件などによる日本人抑留者は3929人、死傷者は44人を数え、人間として満足な生活をする権利すら与えられず、家族が送ってくる差し入れ品すら韓国警察によって中身が抜かれて届かなかったりした[要出典]。当時、李が語った「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」が韓国で流行語になった。 同年には再び議会との対立が激化したが、政府は釜山に逃亡していた[要出典]。任期切れを控えていた李は、憲法の再選禁止を撤廃するために、三選までを許す改憲案を提出した。これに対抗して野党は議院内閣制案を提出した。李は戦時下の釜山に戒厳令を布告し、野党議員を大量に検挙した(釜山政治波動)。 1952年7月4日、国会が警察に包囲されている中、与党議員がほとんどを占めている国会で、改憲案は可決された。大統領の選出は直選制となった。この頃までに李派は自由党を組織している。この時期、アメリカは戦時下において議会との対立を解消できない李の排除を考え始めたと言われている。国民防衛軍事件や居昌良民虐殺事件によって大韓民国陸軍本部では、李に対する反感が高まっていた。 朝鮮戦争初期に大韓民国に侵入した朝鮮人民軍兵士は、その後、韓国内でパルチザン闘争を繰り返した。同じ朝鮮民族によるパルチザン闘争の衝撃は強く尾を引いた。また、李が傷病兵の慰問としてある病院を訪れた時、その中に韓国出身の在日朝鮮人の義勇兵が混ざっていた。 一方で李は1953年1月5日から1月7日までの間、国連軍総司令官マーク・W・クラーク大将の招きの形で、非公式に訪日し、1月6日にクラークの公邸で、吉田茂首相と約1時間対談した。内容は未だに明らかではないが、険悪なやり取りであったとされる。 1953年、戦況が膠着した朝鮮戦争について、国際連合主導による休戦提案が出始めると、李は「停戦反対、北進統一」、「休戦は国家的死刑」を口にし最後まで休戦に反対し、「北進統一論」に基づいた朝鮮半島の大韓民国による統一にこだわった。しかし国際連合は、粛々と休戦への道筋を作り、6月8日に両軍の捕虜送還協定が締結された。 6月18日に、李はアメリカに何の予告も無く捕虜収容所の監視員に捕虜の釈放を指令して、抑留していた朝鮮人民軍捕虜2万5000人を北へ送還せずに韓国内で釈放するという事件を起こした。 正式に決まった協定を反故にする暴挙だったことから、国際世論の非難が高まった上に、北朝鮮内の中国人義勇兵(抗美援朝義勇軍)の全面撤兵を李は要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカ軍と激しく対立した。7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』は以下の様に報じている。 ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。 — 神谷不二『朝鮮戦争』 しかし、あまりにも尊大で強引な李は、件の捕虜釈放事件で孤立することになった。 李はやむなく休戦に同意し、1953年7月27日に、大韓民国の政府要人が署名しないまま、中朝連合軍代表の南日朝鮮人民軍大将と国連軍代表のウィリアム・ハリソン・ジュニア(英語版)アメリカ軍中将が朝鮮戦争休戦協定に署名した。 朝鮮戦争休戦後も、李はアメリカ合衆国議会に出向き、再び「北進統一」を訴えたが、もはや彼の言葉に耳を貸す者は、誰もいなかった[要出典]。
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