朝鮮戦争時の日本
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)
日本は、朝鮮出撃の基地となったほか、掃海部隊の派遣、占領軍労働者による兵員物資輸送、各種労働者の韓国派遣、従軍看護婦の召集など、戦争に対する橋頭堡の役割を果たし、多数の日本人が直接戦場に派遣され、少なからぬ犠牲者も出た。ジェームス・アワーの『よみがえる日本海軍』によると、46隻の日本掃海艇、大型試航船および1,200名の旧海軍軍人が元山、群山、仁川、海城、鎮南浦の各掃海に従事し、掃海艇が2隻沈没し、1人が死亡し、8人が負傷した。調達庁が1956年に発行した『占領軍調達史』によると、1951年1月までの間に、特殊港湾荷役者、特殊船員、その他朝鮮海域等において特殊輸送業務に従事した者が、52人死亡し、329人負傷した。児島襄の『朝鮮戦争』によると、仁川上陸作戦に際し、沖仲仕だけで3936人が参加した。1951年9月26日の日本赤十字社第56回通常総会での島津忠承社長の演説によると、派遣要請により、九州地方の各支部から第1次54人、第2次25人、第3次17人が交替派遣され、その時期63人が国連軍病院で勤務していた。その後、2020年までに毎日新聞社が入手したアメリカ国立公文書記録管理局所蔵のアメリカ軍作成の極秘文書で、アメリカ軍が少なくとも60人の日本の民間人男性を帯同させ、うち18人が戦闘に参加しており、その中には当時少年だった者が含まれていたことが判明している。
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