朝鮮戦争期
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1951年、国立映画撮影所は米軍の爆撃で全焼した。朝鮮の映画人たちは中国の東北電影に疎開し、1953年までそこで映画の製作を続行した。
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朝鮮戦争期
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1950年10月から1954年の初めまでに、空軍航空部隊は28個師団70個連隊が創設され、約3000機の航空機を保有するまでになっていた。中華人民共和国(以降、中国と略す)は、朝鮮戦争で朝鮮民主主義人民共和国(以降、北朝鮮と略す)側が劣勢に立たされ、戦線が限りなく鴨緑江に近づくと、このままでは国連軍が中朝国境を越えて中国側に攻め入ると危機感を持った。1950年10月末に実質的に中国人民解放軍である中国人民志願軍という形で北朝鮮側に立ち戦争に参加した。まず初めに中国陸軍部隊の人民志願軍が参戦し、1950年12月から中国空軍部隊の人民志願軍空軍が参戦した。 まず初めに、東北民主連軍航空学校で養成された第4航空師団の部隊を人民志願軍空軍に編入させた。その部隊は前線基地の安東飛行場に進出し、そこで戦闘訓練を行った。1951年1月20日に、人民志願軍空軍と国連軍(アメリカ空軍)の戦闘機同士の空中戦が初めて行われた。この空中戦で中国側のMiG-15はアメリカ空軍の1機のF-84に損傷を与えた。それまで北朝鮮軍にはジェット機を保有する本格的な航空兵力は無かったため、史上初のジェット戦闘機同士の空中戦とされる。また同月29日にも空中戦が行われ中国側は1機のF-84を撃墜をしたと中国側の記録に記されている。この撃墜は中国空軍史上初である。中国側のMiG-15はアメリカ空軍のB-29爆撃機を多数撃墜している。それまでは一貫して朝鮮半島ほぼ全域の制空権を握っていたアメリカ軍の自信は、中国人民志願軍空軍のMiG-15の登場に依って揺らぎ始めた。 しかし、熟練パイロットの操縦する新型機F-86セイバーの登場により、アメリカ空軍が制空権を失う心配は杞憂であった事を証明した。F-86とMig-15の性能は、ほぼ同等であった。操縦するパイロットの質は中国側が大きく劣っていて、訓練時間が少なく、実戦経験が不足していた。 中国人民志願軍の作戦機は、数参戦初期は650機、1951年中頃は1050機、1952年末までには1485機をソ連から獲得したとされる。朝鮮戦争の期間、人民義勇軍空軍の戦果は、中国側の発表とアメリカ側の発表が大きく食い違っている。中国側資料では中国側の損害は撃墜231機、損傷151機で、戦果は撃墜330機、損傷95機となっている。アメリカ側資料では国連軍側の戦果は撃墜976機、失った機体は1986機だがその内空中戦で失ったのは僅か147機となっている。この時期の中国側のパイロットでは張積慧(英語版)が有名なパイロットだが、その戦果も議論がある。
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朝鮮戦争期
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「第一共和国 (大韓民国)」の記事における「朝鮮戦争期」の解説
戦争に関する詳細は朝鮮戦争を参照 1950年6月25日、北朝鮮・朝鮮人民軍が朝鮮の赤化統一を目指して韓国に侵入し、戦争が勃発した。国土の大半を喪失し、韓国軍が壊滅状態に陥った韓国は存続の危機に瀕したが、アメリカの主導下で、16カ国が国連軍として最初の集団軍事行動を行い、反攻に転じた。国連軍の参戦で、韓国軍は一時鴨緑江に達したが、中国人民志願軍(中国人民解放軍)の参戦で再び退却し、1951年以降は北緯38度線付近で戦線が膠着した。 戦線の膠着を受けて1951年7月から開始された休戦交渉は、1953年7月27日の板門店における休戦協定の調印で幕を迎えた。協定により、軍事境界線と非武装中立地帯(DMZ)が朝鮮半島に設けられ、朝鮮の分断体制が固定された。ただし、北朝鮮・中国と国連軍は協定に調印したものの、朝鮮の統一を唱える李承晩はこの停戦協定を不服として調印を拒否した。平和条約は、今なお調印されていない。 戦争勃発後、北朝鮮が全面攻撃を展開したことにより、韓国は民衆生活から政治までもが混乱に陥り、李承晩は国会の支持を失い始めた。そのために李と国民党は、権力集中によってこの危機を耐え抜こうとした。ソウルから釜山へと政府機関を移転した李は、まず1952年3月に国民党や民族青年団など右翼団体を糾合して自由党を結成した。そして同年5月、大統領の選出方法を国民による大統領直接選挙制とする憲法改正(抜粋改憲)を実施し、大差で再選し第二代大統領になった。その際に、国会の多数派を率いていなかった李は、戒厳令を敷いて軍を動員し、憲法改正に反対票を投じると予想された国会議員を50数名を投獄した(釜山政治波動)。 この時期の共和国では、反共政策も政府によって強力に継続され、保導連盟事件や居昌事件などの虐殺が韓国軍や韓国警察によって引き起こされた。また、1951年には国民防衛軍事件が発覚するなど、政権の不正腐敗体制が露わになった。韓国陸軍本部からは李承晩大統領の前述の残虐行為に対して不満が募りアメリカ合衆国へクーデターの許可を求めた。朝鮮半島を南北に振動した戦線は、韓国に多数の民間人の死傷者と莫大な破壊を招いた。1953年の休戦後、李は政府機関を8月15日というシンボリックな期日にソウルへと戻した。
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