議会との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:05 UTC 版)
「ジェームズ2世 (イングランド王)」の記事における「議会との対立」の解説
宗教問題による緊張は1686年、あるフランス外交官から、王は揺るぎない支配体制を築くべきであると進言されたことに端を発する。この問題を審議した王座裁判所は、王は審査法による宗教的制限を受けないという決定を下した。ジェームズ2世はこの決定を根拠に、カトリック信徒が高位公職につくことを許し、ローマ教皇大使フェルディナンド・ダッダを宮廷に招き入れ、イエズス会士エドワルド・ペトレを自らの聴罪司祭に据えた。こうしたことはメアリー1世時代(1553年 - 1558年)以来なかったことで、プロテスタント支配層の怒りを買い、ジェームズ2世の支持層であったトーリーとの溝を深めることになった。 次にジェームズ2世はロンドン主教で反カトリックの急先鋒の一人ヘンリー・コンプトンをはじめ、要職にあった国教会信仰の者を免職しはじめた。1687年1月には義弟でアイルランド総督のクラレンドン伯ヘンリー・ハイド・大蔵卿のロチェスター伯ローレンス・ハイド兄弟を罷免して4月に信仰自由宣言(英語版)を発し、カトリック及び非国教会プロテスタントへの制限・処罰を停止した。更にオックスフォード大学クライストチャーチおよびユニバーシティ・カレッジでも国教会信徒からカトリックへ要職・研究者職のすげ替えが行われ、これが議会を刺激した。7月には議会を解散、10月から11月にかけて各州の統監と治安判事に、次の選挙に親カトリックを支持するかどうかの質問状を送り、反対派を更迭、自治都市への介入も進めていった。 これらの親カトリック政策、および非国教会信徒への規制緩和政策は、支配者層の大部分であった国教会信徒との軋轢を生んでいったが、一方で優遇されるカトリックの側にとっても手放しで喜べることではなかった。広い支持のない政策によって優遇されたカトリック聖職者らは、ジェームズ2世亡き後は再び強い敵意の中に放り出されるのではないかという不安を持ち始めていた。いまやジェームズ2世の支持基盤は、ごく少数の腹心たちだけであった。
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