超然主義の脆さ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:49 UTC 版)
しかし、実際に帝国議会が開かれると「民党」と称された民権派の流れを汲む野党勢力が激しく抵抗した。黒田内閣による民党分裂工作と条約改正交渉の失敗、第1次山縣内閣による民党買収による予算案通過、第1次松方内閣による選挙干渉事件などが、却って議会の審議を停滞させたばかりでなく、一般国民の反発を買った。 実は、帝国憲法そのものが超然主義を前提に制定されたものでなかった。例えば、帝国憲法第71条においては、本予算(当初予算)が年度開始前までに成立しなかった場合には、前年度の予算がそのまま新年度予算として執行される規定があった。これは、政府予算が議会側によって人質に取られて妥協を強いられる事の無いようにという趣旨で、井上毅が提案したものであった。ところが、裏を返せばそれは前年度予算がそのまま実行された場合には、当時の日本にとっての緊急の課題であった殖産興業や富国強兵政策のための新規事業が実施できなくなるという事も意味していた。このため、政府側は新規の政策のための予算を必要とする官庁や軍からの突き上げを受ける事になり、民党に対してポストや金で抱き込んででも予算案を通過させる必要性が出てきてしまったのである。また、親政府勢力と見られた温和派(吏党)も国粋主義色を強めるにつれて政府と対決姿勢を見せる事例も現れた。 こうした状況を見た伊藤博文は考えを改めて、超然主義を取って議会との対立を続けるよりも、自らが目指す近代国家の方向性を実現させるための政党結成に乗り出す事を考え、1900年(明治33年)に立憲政友会を旗揚げして、政府の内側から超然主義を否定する動きに出たのである。 その後も貴族院では、山県側近の清浦奎吾の研究会と平田東助の茶話会という2大会派が超然主義を奉じて、政党政治の排除の動きを行っていた。やがて、1924年(大正13年)に成立した清浦内閣は研究会を中心とした内閣総理大臣(前枢密院議長)と外務大臣(外交官)・陸軍大臣(現役武官)・海軍大臣(現役武官)以外を全て貴族院議員が占めるという文字通りの超然内閣を樹立させた(ただし、この内閣が間近に控えた総選挙の実施のための選挙管理内閣としての側面があった事に留意する必要がある。なお清浦本人も高橋内閣の退陣時に「憲政の常道にのっとり次の首相には野党党首の加藤高明はどうか」と元老に進言しており、必ずしも超然主義絶対の立場ではなかった)。この内閣は立憲政友会などの政党側のみならず一般国民からも反感を買い、第2次護憲運動によって倒された。大正デモクラシーの時流の中で時代遅れとなった超然主義に、存立の余地はなかったのである。
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