超然主義演説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:49 UTC 版)
超然主義は、第2代内閣総理大臣の黒田清隆が、大日本帝国憲法公布の翌日である1889年(明治22年)2月12日、鹿鳴館で催された午餐会(昼食会)の席上、地方官らを前にして行った、以下の演説(いわゆる「超然主義演説」)において表明された。 ……憲法は敢て臣民の一辞を容るる所に非るは勿論なり。唯た施政上の意見は人々其所説を異にし、其合同する者相投して団結をなし、所謂政党なる者の社會に存立するは亦情勢の免れさる所なり。然れとも政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らさる可らす。各員宜く意を此に留め、不偏不党の心を以て人民に臨み、撫馭(ぶぎょ)宜きを得、以て国家隆盛の治を助けんことを勉むへきなり。…… 翌日、大日本帝国憲法起草を主導した伊藤博文も同様の主張を表明する演説を行った。 これに対して、伊藤以外の憲法起草のメンバーである井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らは批判的であった。すなわち、黒田・伊藤らの主張は「ビスマーク流の專制政治を我邦に施さんとする」ものであり、国務大臣は議会に対して責任を負うものではないものの、 「民の声は神の声なり」(=天声人語)というホメロスの『オデュッセイア』にある言葉 「朕民の心を追つて朕の心とする」という禹王の故事 明治天皇が五箇条の御誓文において誓った「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という言葉 を引いて、「天皇は國民の輿論を荷はない所の内閣を信任し玉ふ道理がない故に國務大臣の責任は法理上天皇に對して之を負ふと云ふも實は議會を通じて國民に對して負ふべき」ものであるとし、「輿論とは沒交渉で議會から不信任を受けても天皇の信任ある間は進退すべきではないと公言するは民の聲を以て神の聲とし、民の心を以て朕の心とすとの玉ふ名君を貶し、萬機公論に決すと宣へる聖旨を裏切る」ものであると主張した。
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