かねこ‐けんたろう〔‐ケンタラウ〕【金子堅太郎】
金子堅太郎 かねこ けんたろう
福岡生まれ。官僚、政治家。父は福岡藩士。藩校修猷館で学ぶ。明治4年(1871)藩主黒田長知に随行し渡米。ハーバード大学で法律学を修める。13年(1880)元老院に出仕。権大書記官、首相秘書官等をつとめる。明治憲法の草案起草に参画し、諸法典の整備にも尽力。23年(1890)貴族院書記官長、貴族院勅選議員。第3次伊藤内閣農商務相、第4次伊藤内閣司法相を歴任。日露開戦時米国に派遣され外交工作にあたる。39年(1906)枢密顧問官。晩年は臨時帝室編修局総裁、維新史料編纂会総裁として史料編纂にあたった。
キーワード | 官僚, 政治家 |
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- 著作等(近代デジタルライブラリー収載)
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- 本邦法令摘要 / 金子堅太郎著 弘道書院, 明18.2 <YDM31135>
- 議院建築意見 / 金子堅太郎著 金子堅太郎, 明24.2 <YDM66439>
- 予算費額増加ノ得失 / 金子堅太郎著 金子堅太郎, 明25.6 <YDM301036>
- 欧洲ニ於ケル日本米 / 金子堅太郎述 望月正利, 明28.11 <YDM203340>
- 戦後経済の方針及機関 / 金子堅太郎著 金子堅太郎, 明28.12 <YDM40335>
- 農商工高等会議ニ於テ海外貿易ニ関スル金子農商務次官ノ演説 農商工高等会議, 明29.11 <YDM203459>
- 巴里万国大博覧会に対する方針 / 金子堅太郎著 臨時博覧会事務局, 明30.2 <YDM42195>
- 貴族ノ財産維持法 / 金子堅太郎述 鈴木重雄, 明30.6 <YDM40488>
- 貴族論 / 金子堅太郎著 鈴木重雄, 明32.6 <YDM39492>
- 米国経済事情と日本興業銀行 / 金子堅太郎述 ; 三木貞質編 小椙吉次郎, 明32.11 <YDM40403>
- 遊米見聞録 / 金子堅太郎述 ; 水上梅彦記 八尾書店, 明33.3 <YDM26980>
- 織物に関する演説 / 金子堅太郎述 中央織物協会, 明33.6 <YDM67726>
- 経済政策 / 金子堅太郎著 大倉書店, 明35.11 <YDM40202>
- 日本教育之将来 / 金子堅太郎著 弘道館, 明39.5 <YDM50724>
- 国家存立の原則 / 金子堅太郎著 白鳥斯文閣, 明40.6 <YDM27839>
- 日本大博覧会経営ノ方針 日本大博覧会会長子爵金子堅太郎君演説集 日本大博覧会事務局, 明41.1 <YDM42189>
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金子堅太郎
金子堅太郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/31 15:24 UTC 版)
金子 堅太郎[1](かねこ けんたろう、嘉永6年2月4日〈1853年3月13日〉 - 1942年〈昭和17年〉5月16日[2])は、日本の官僚、政治家。大日本帝国憲法起草者の一人。栄典は従一位大勲位伯爵。
注釈
- ^ のちに憲法制定の功績により男爵となる。
- ^ 金子がそのような重大な使命は果たせないと固辞すると、伊藤は「ロシアが九州海岸へ来襲すれば自分も武器をとって戦う覚悟だ」と説き、金子はその気迫に感銘を受けて渡米を決意したといわれる。猪木(1995)p.36
- ^ 塩崎智『アメリカ「知日派」の起源---明治の留学生交流譚』平凡社、2001年、188頁。「金子堅太郎自叙伝(2)」(日本大学精神文化研究所紀要第28集、1997年3月、106頁)に、「余は日本か海国なるか故に海軍兵学校に入学せんと欲し医師に就き相談したれは、医師曰く『診察する所に依れは別に不適当なる場合はなけれとも餘に頑強なる身体とも見へさるに付貴下か海軍に従事する家柄てなけれは他の専門科を選みては如何』と注意せられたるに依り、父か筑前の藩政に関係したる縁故を以て法科大学に入学することに決定したり」と記されている。
出典
- ^ 金子堅太郎 ポーツマス講和会議 明治38年(1905年)
- ^ 「彙報 官庁事項 官吏薨去及卒去」『官報』第4604号、昭和17年5月19日、p.614
- ^ a b “囚徒ヲ従事セシメントス”. 幕別町史. 幕別町. 2012年5月28日閲覧。
- ^ 友愛労働歴史館「ユニテリアン・ミッションのスタートから130年、明治22年10月!」。2022年10月30日閲覧。
- ^ 読売新聞社西部本社 編『福岡百年』上,209頁,浪速社,1967.
- ^ 猪木(1995)p.61
- ^ 佐々木(2004)
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、487頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
- ^ 帝国憲法起草者の一人、死去(昭和17年5月17日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p68 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 青山霊園に眠る偉人・著名人一覧 金子堅太郎詳細
- ^ 『官報』第2182号、明治23年10月6日。
- ^ 『官報』第2517号、明治24年11月18日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、6頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、15頁。
- ^ 松本佐太郎 1929.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah 「金子堅太郎」 アジア歴史資料センター Ref.A06051181400
- ^ 『官報』第322号「叙任及辞令」1884年7月25日。
- ^ 『官報』第2086号「叙任及辞令」1890年6月14日。
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日。
- ^ 『官報』第4172号「叙任及辞令」1897年6月1日。
- ^ 『官報』第4456号「叙任及辞令」1898年5月11日。
- ^ 『官報』第8649号「叙任及辞令」1912年4月22日。
- ^ 『官報』第343号「叙任及辞令」1928年2月22日。
- ^ a b 『官報』第4604号「叙任及辞令」1942年5月19日。
- ^ 『官報』第1932号「叙任及辞令」1889年12月5日。
- ^ 『官報』第2251号「叙任及辞令」1890年12月27日。
- ^ 『官報』第2313号「叙任及辞令」1891年3月19日。
- ^ 『官報』第3291号「叙任及辞令」1894年6月20日。
- ^ 『官報』第3823号「叙任及辞令」1896年3月31日。
- ^ 『官報』号外「授爵叙任及辞令」1900年5月9日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年3月31日。
- ^ 『官報』第7273号「授爵・叙任及辞令」1907年9月25日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』号外「授爵・叙任及辞令」1928年11月10日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第1510号「宮廷録事-恩賜」1932年1月15日。
- ^ 『官報』第2101号「叙任及辞令」1934年1月6日。
- ^ 『官報』第3297号「叙任及辞令」1937年12月28日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第3457号「叙任及辞令」1938年7月13日。
- ^ 『平成新修旧華族家系大成』上巻、442頁。下巻、87頁。
- ^ 金子堅太郎『欧米議院制度取調巡回記』大淵和憲校訂、信山社<日本憲法史叢書6>、2001年、ISBN 4-7972-5047-X。
- ^ マハン著、水上梅彦訳『太平洋海権論』(小林又七、1899年)巻頭、金子堅太郎「序文」。麻田貞雄「歴史に及ぼしたマハンの影響---海外膨張論を中心に」、麻田訳『アメリカ古典文庫 8 アルフレッド・T・マハン』研究社、1977年、7-8頁。
- ^ 容應萸、「19世紀後半のニューヘイブンにおける日米中異文化接触」 『アジア研究』 2016年 62巻 2号 p.37-60, doi:10.11479/asianstudies.62.2_37
- ^ 濱田浩一郎『日本人はこうして戦争をしてきた』青林堂、2012年 ISBN 4792604540
- ^ 伊勢雅臣『世界が称賛する 国際派日本人』扶桑社、2016年 ISBN 4594075681
- ^ 電話の發明者グラハム・ベル氏を語る 伯爵 金子堅太郞氏『逓信畠の先輩巡礼』内海朝次郎 著 (交通経済社出版部, 1935)
- ^ 梅沢精一 著『芳崖と雅邦』,第六フエノロサ 78~81頁,純正美術社,大正9. 国立国会図書館デジタルコレクション
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