日本への紹介
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「ローレンス・スターン」の記事における「日本への紹介」の解説
ローレンス・スターンを日本に初めて紹介したのは夏目漱石である。1897年(明治30年)に漱石は『トリストラム、シャンデー』と題する文章を発表、自身の小説『吾輩は猫である』などでも影響を受けたものと見られる。
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日本への紹介
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「K-ROCK (韓国の音楽)」の記事における「日本への紹介」の解説
K-POPに比べれば規模は限られているが、K-ROCKは日本にも各種のプロモーション活動や公演を行なうようになっている。 近年では、ユン・ドヒョン(韓国語版)が率いるYB (バンド)(韓国語版)が、代表的バンドとして日本にも紹介されている。
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日本への紹介
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「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」の記事における「日本への紹介」の解説
日本へは近衛秀麿によって比較的早く紹介され、1927年(昭和2年)と1930年(昭和5年)に近衛指揮の新交響楽団(ソリストは団員)によって演奏されている。近衛はその後、1937年(昭和12年)にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と同曲を録音し、1954年(昭和29年)の近衛管弦楽団第14回定期演奏会でも演奏、さらには1970年(昭和45年)のハインツ・ホリガー初来日の際に、日本フィルハーモニー交響楽団(オーボエ以外のソリストは団員)を指揮している。なお、ベルリン・フィル録音ではオーケストラのみの部分に数か所のカットがあり、近衞自身の考えによると考えられるが、現下のCD評などで、それに言及したものはない。 一方、レヴィンとリースンによる復元版は2004年(平成16年)に小澤征爾指揮の水戸室内管弦楽団によって演奏され、CDも録音された。なお、小澤はそれ以前の演奏(たとえば1987年(昭和52年)の桐朋学園オーケストラ、宮本文昭、千葉馨など)では慣行版を用いていた。つまり水戸では宮本文昭が今度は同じ指揮者でレヴィン版を演奏することになった。
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「ヴァン・ダインの二十則」の記事における「日本への紹介」の解説
雑誌「新青年」1930年(昭和5年)6月号に「探偵作家心得二十ヶ條」として掲載された。小河原幸夫訳。ヴァン・ダインの寄稿によるものであり、編集部宛書簡の一部も掲載された。
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日本への紹介
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この曲には、日本語の歌詞が付けられ、NHK『みんなのうた』で前後2回、異なる歌詞で取り上げられた。まず1961年に、ダーク・ダックスの訳詞・歌唱によるものが放送された。同じ1961年に、ダーク・ダックスのシングル『すずらん』(キングレコード、規格品番:EB-7027)のB面に「トンピリビ」の曲名で収録された。このバージョンは、原曲の歌詞に見える地名(スコットランドを意味する「エコース」とモンテネグロを指す「モントネグロ」)がそのまま訳出されているものの、主人公トム・ピリピが実は嘘つきだというオチは表現されていない。 1965年には水野汀子の訳詞、ペギー葉山の歌唱によるものが放送された。こちらでは、原曲と同様に、歌詞の3番で主人公が「大ボラ吹き」であることが明かされる。 なお映像は双方とも中原収一製作となっているが、1965年版は1961年版と同じ映像か、あるいは新撮かは一切不明。 水野汀子の訳詞版は1974年に高校の、1975年に中学校の音楽教科書に掲載された。 水野汀子の訳詞版はビリー・バンバン、天地総子、塩野雅子、鮫島有美子などにカバーされている。
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日本への紹介
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英語の原題は「今夜(が後の夜かもしれない)」といった意味であり、初期には「今宵こそは」という曲名で紹介されたという。 「夢のお月様」は、漣健児がつけた邦題であり、ザ・ヴェルヴェッツの日本盤もこのタイトルで発売された。漣は日本語の訳詞も手がけ、この日本語詞による歌唱は紀本ヨシオによるものがある。
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江戸時代の地理学者山村才助が著した『西洋雑記』では、「ヘカッテ(ヘカテー)」についての言及がある。 [中略]歳星の女を「ヂアナ」といふ。世に是を猟神と称す。此神神通廣大にして。一體三名あり。天に在りては「マーン」(月輪を云)と現じ。世界にありてハ「ヂアナ」と称し。地獄にありてハ「ヘカッテ」と號す。
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「アルフレッド・セイヤー・マハン」の記事における「日本への紹介」の解説
同時代の日本においてマハンの著作・思想の紹介・導入・応用に関わった人物として、金子堅太郎・肝付兼行・小笠原長生・佐藤鉄太郎・寺島成信がいた。それぞれの項目を参照。
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「ルドルフ・シュタイナー」の記事における「日本への紹介」の解説
1912年には、明治・大正期に教育界で活躍した隈本有尚(1860年 - 1943年)による「宗教的、道徳的情操の教養上見神派の心理学の応用」(1912年、『丁酉倫理会倫理講演集』)によって、シュタイナーの教育思想が日本に紹介された。 1925年から14年、ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュが旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭を執っていたが、その授業の中で人智学を教えている。カルシュはマールブルク大学在学中にゲーテアヌムでシュタイナーと直接会ったのをきっかけに人智学に傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献の英語訳者として活動、次女フリーデルンはマールブルクのシュタイナー学校に通い、自由ヴァルドルフ学校でシュタイナー教育に従事、日本人親子を指導したとされる。 1920年代には、シュタイナーの設計した「ゲーテアヌム」を現地で見て感激した早稲田大学の今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった。 1970年代頃から、娘の教育のため、家族でドイツに留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘンの小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告が反響を呼び、新しい教育方法としてシュタイナー教育が注目された。 1970年代後半になって、哲学関係の出版社「イザラ書房」がシュタイナーの翻訳出版(『神智学』1977年)を始める。 1996年には、NHKのNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組で、シュタイナー教育を行うヴァルドルフ学校が紹介された。 また、イタ・ヴェーグマン医師とシュタイナーが共同で創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催で医師向けの専門的な訓練が日本国内でも開始されており、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」が設立された。 2000年・2001年には、東京と大阪で、シュタイナーが生涯を通じてひそかに書きためていた600冊のノートを分析して思想を探り、うち100冊を公開する展覧会が開催された。(4月14日から8月27日は東京のワタリウム美術館で、2001年3月3日から4月5日はKPOキリンプラザ大阪で開催。)翻訳はシュタイナー研究者・人智学徒の高橋巖。
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日本への紹介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 02:44 UTC 版)
サンドウのトレーニング法は、明治時代、欧州視察中にサンドウを知った嘉納治五郎によって日本にも紹介された。
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「イリヤ・ワルシャフスキー」の記事における「日本への紹介」の解説
1967年に大光社「ソビエトS・F選集」の第五巻として、個人短編集『夕陽の国ドノマーガ』(草柳種雄編訳、18作を収録)が刊行されている。それ以外にまとまった翻訳はなされていないが、「SFマガジン」や各社の短編集に訳載された作品の合計は23編になる。
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日本への紹介
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「トランジション・タウン」の記事における「日本への紹介」の解説
2008年3月、イギリスのエコビレッジ、フィンドフォーンで暮らしていた榎本英剛が、日本への帰国を前にして、ともにパーマカルチャーを学んだ仲間をフィンドホーンに招待した際にロブ・ホプキンスと面会した。ホプキンスのワークショップに参加した榎本と仲間は、トランジション・タウンの持つ循環型の地域づくりの考え方に賛同して帰国。神奈川県の藤野、葉山、東京の小金井の三か所で、日本ではじめてのトランジション・イニシアチブを開始した。
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日本への紹介
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日本ではまず最初の映画5作が、1915年(大正4年)に浅草の電気館にて以下の邦題で公開された。 『ファントマ/ベルタム事件』(『ファントマ』) 『ファントマ/不思議な指紋』(『ファントマ対ジューヴ警部』) 『ファントマ/黒衣の人』(『ファントマの逆襲』) 『ファントマ/仮面舞踏会』(『ファントマ対ファントマ』) 『ファントマ/偽りの長官』(『ファントマの偽判事』 この前に公開された『ジゴマ』のような大きな人気とはならなかったが、1917年に谷崎潤一郎の短篇「魔術師」では、Fantomasが「世界中の人間の好奇心を唆した」活動写真として言及されている。 1921年(大正10年)になって小説が翻訳され、以後以下が刊行されている。 『犯罪王対探偵王』Juve contre Fantômas 武田玉秋訳、紅玉堂、1921年(大正10年) 『謎の死美人』L'Assassin de Lady Beltham 武田玉秋訳、紅玉堂、1921年(大正10年) 『幻の兇笑』Fantômas、松村博三訳、博文館(探偵傑作叢書)、1923年(大正12年)(1921年『新青年』に前半部分を連載後に単行本化、後半部分は訳されず) 『幻賊』Fantômas、田中早苗訳、白水社、1931年(昭和6年) 『新青年』版 1937年(昭和12年)に『ジゴマ』に続いて別冊付録として久生十蘭によって翻訳され、博文館文庫として単行本化。十蘭がこの後に執筆した長篇小説『魔都』の冒頭部分は、ファントマ第5作Un Roi prisonnier de Fantômasに基づいている。『ファントマ第一』Le Mort qui tue 久生十蘭訳、博文館、1937年(コーベブックス、1975年) 『ファントマ第二』Fantômas・Juve contre Fantômas 久生十蘭訳、博文館、1937年 ハヤカワ文庫版『ファントマ』Fantômas 佐々木善郎訳、早川書房、1976年 『ファントマ対ジューヴ警部』Juve contre Fantômas 佐々木善郎訳、早川書房、1978年 『ファントマの逆襲』Fantômas se venge 佐々木善郎訳、早川書房、1978年 このほか、水谷準による翻案がある。水谷道夫名義で『翻倒馬殺人譜』として『朝日』1931年6月号 - 12月号に連載され、単行本への再録に際し『殺人狂想曲』と改題された。舞台は日本に移されており、登場人物も日本名となっているが、翻倒馬(ファントウマ)と什武(じゅうぶ)探偵は元の名のままとなっている。 水谷準『殺人狂想曲 他2編』春陽堂書店〈春陽文庫〉、1995年。
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「ヒロイック・ファンタジー」の記事における「日本への紹介」の解説
日本への紹介は、1970年(昭和45年)に団精二(荒俣宏の筆名)と鏡明がロバート・E・ハワードの『英雄コナン』シリーズを翻訳したことからはじまった。「魔道」「魔道士」はこのときの荒俣の造語である。他のヒロイック・ファンタジー作品も多く翻訳されたが、その後ほとんどが絶版となった。1970年代以降には、主にSF作家によってヒロイック・ファンタジー作品が発表され、主なものとして 豊田有恒:『ヤマトタケル』シリーズ(日本武尊SF神話シリーズ) 高千穂遙:『美獣』『異形三国志』 田中光二:『ヘリック』シリーズ 栗本薫:グイン・サーガ がある。 2000年代に入りファンタジーブームは終息したが、絶版となっていた『英雄コナン』シリーズは2006年(平成18年)に26年ぶりに新訳で再刊された。また、2007年(平成19年)には英雄コナンを基にしたアクションゲーム『CONAN』が発売された。 2010年代に入り、小説投稿サイト「小説家になろう」に投稿された複数の小説をきっかけに再びファンタジーブームが起き、一部作品は書籍化や各メディア展開などが行われている。
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日本への紹介
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日本におけるモリエール受容の歴史は、およそ大別して3つの時期に分けることができる。 1、1886年~1904年頃、英訳本からの重訳 尾崎紅葉の翻案 日本においてモリエールが初めて紹介されたのは、1886年のことであった。『女房学校』が湖東生という人物によって『西洋風滑稽演劇 南北梅枝態(かげひなたうめのえだぶり)』として翻案されたのである。この作品は読売新聞上にて、同年10月31日から11月23日まで連載された。この「湖東生」なる人物は実際のところ、どういった人物かよくわかっていない。 これについで、その6年後の1892年には尾崎紅葉が『守銭奴』、『いやいやながら医者にされ』を翻案し、それぞれに『夏小袖』、『恋の病』という題名をつけた。『夏小袖』は春陽堂書店から刊行され、『恋の病』は読売新聞上にて連載された。『夏小袖』は出版当時、紅葉の名は伏せられ、巻末に付した投票用紙で作者名を当てるという懸賞付きの作品であった。泉鏡花が清書を行ったため、彼と春陽堂の主人以外は紅葉が作者であることを知らなかったという。この懸賞が話題を読んで、様々な論評が同作に加えられることとなった。作者が紅葉であることは、再版発行後に春陽堂の広告において告知されたが、その際、予想を的中させた340名の氏名を掲載し、以下のような序文を添えている。 原文:一拙著今般一時の出来心より不文をも省みず貴著ラヴール事守銭奴を我儘に添削仕り森盈流なる貴姓に紛はしき変名にて夏小袖と題する新板発行致候段高作の體面を汚しなんとも申訳無之剰へ氏名投票を懸賞仕り世人を惑はし候条重々の不埒恐入候向後は相搆へて右様の不都合仕間敷無偽証として所持の英訳モリエル集三巻焚捨可申万一文盲の輩夏小袖を一覧候のみにて貴殿の技倆を彼此申出候に於ては拙者引受け玉石辯明可仕詫証仍て如件 - 明治壬辰十一月 尾崎紅葉 モリエル殿訳:出来心から、文章力のなさを省みずあなたの作品であるラヴール(L'Avare)こと『守銭奴』を思うがままに翻案致しました上に、「森盈流」というあなたのお名前と紛らわしい変名を用いて『夏小袖』という題名の作品を発表し、あなたの作品を汚してしまったこと、あまつさえ、作者を当てる懸賞を行って世間の皆様をお騒がせしたことなど、度重なる不埒行為を申し訳なく思います。今後はこのようなことがないようにするために、私が持っている英訳本モリエル集三巻を、焼き捨てることにしました。万が一『夏小袖』に目を通しただけで、あなたの劇作の能力にああだこうだとケチをつける者が出てきた場合には、前述のとおり、私が弁明を引き受けることと致します。 - 1892年11月 尾崎紅葉 モリエール殿 この序文にある「所持の英訳モリエル集三巻」とは、研究の結果、1883~87年に刊行された英訳本であることが判明している。余談だが、同じ本を夏目漱石も所持していたという。1897年には舞台で伊井蓉峰率いる一座によって初演が行われ、1912年までの15年間で毎年日本各地で上演が続けられた。日本国内だけでなくアメリカでも上演され、大成功を収めている。 『夏小袖』の登場は、日本へのモリエールの紹介に大きく貢献しただけでなく、ひとつの演劇作品としても画期的であった。1903年2月の「歌舞伎」という雑誌に掲載された伊臣紫葉の「夏小袖の評」には以下のような記述がある; 原文:新演劇の二番目または大切には、喜劇と云へるもの無くては叶はぬ様になりて、果は愚にも附かぬ擽りや、洒落種の駄物に迄、喜劇の二字を冠せて演ずることの流行ども、所謂喜劇なるものを、舞台にかけて成功せしは、伊井一座が此夏小袖を明治三十年十月眞砂座にて演じたるが始にて、紅葉山人作の名文を其儘科白と作し、高尚にして平易なる滑稽劇の好標本を示してより、續て山人の戀の病、八重欅等、皆此座の専賈品となりしが、就中夏小袖は、數回手に入りて俳優の伎は益々熟達の域に達せり。抄訳:新演劇の演目には、喜劇と呼べるものが必要になったが、まるで喜劇と呼べない駄作にまで「喜劇」と銘打って上演にかけるのが流行となっていた。いわゆる(本物の)喜劇というものを舞台にかけて成功したのは、伊井蓉峰率いる一座がこの『夏小袖』を明治30年10月に真砂座において上演したのが最初であった。尾崎紅葉先生の名文をそのまま台本として、高尚だがわかりやすい滑稽劇の良い見本を示してから、『恋の病』や『八重欅』など、先生の作品を続々と上演したが、とくに『夏小袖』は繰り返し上演され、俳優の演技がどんどん上達していった。 この評に見えるように、下らない駄作にまで喜劇と冠して上演していたところに『夏小袖』が現れ、(本物の)喜劇として上演されて成功を収めた。明治時代後期の演劇界では、伝統演劇の堕落への反省から、新風を吹き込むために西洋の喜劇の換骨奪胎が試みられていた。その試みにおいて紅葉の『夏小袖』が大成功を収めたことで、モリエールを持て囃す風潮が興ったのである。ところが、こうして訳されたモリエールの翻訳作品は単に素材を借りただけのものに過ぎず、モリエールの作品やその意図を正確に移植しようという考えは、この時期にはまだほとんど見られない。これは西洋と日本文化、伝統があまりに隔絶されていたことも一因である 2、1904年~1926年、英訳本からの重訳 草野柴二の翻訳、翻案 (金尾文淵堂(1908年・1916年)、加島至誠堂(1911年以前) 刊行) 1904年になって、草野柴二が英訳本を底本としたモリエールの戯曲の翻訳を雑誌に連載し、それらのうち15作品をまとめて『モリエエル全集』を刊行した。全集としては日本初のものであるが翻案の域を出ていない。草野は、その序文で「翻訳と称すと躍、じつはこの中拙劣なる翻案を混れり。是等は後年更に翻訳して読者にまみゆべし。」と述べていることから、翻訳と翻案の区別はついていたものと考えられるが、この場合の翻訳も現代で考えるようなそれではない。草野の翻訳はモリエールのテキストに忠実ではあるが、戯曲の舞台を日本に設定し、登場人物をすべて日本人としてしまったので無理が生じ、実に珍妙な描写が生まれてしまった。以下はそれに該当する、草野訳の『守銭奴』の描写である。先述したように登場人物は日本人だから、主人公のアルパゴンは藪坂林兵衛、「とりもちばばあ」のフロジーヌは「奉公女世話焼婆」のお欲として描かれている。 林兵衛:だがお欲、お前、あの母親が娘につけてよこす持参金のことを話したかい、(中略)何か持参のある娘でないと貰ふ人はないのだから。お欲:どう致しまして旦那様、あのお娘は年に一万二千フランの実入りがあるのでございます。林兵衛:年に一万二千フラン! 見ればわかるように、日本人同士の会話でいきなりフランスの貨幣が登場する。この後の場面で、林兵衛は命より大切にしていた貯金箱を盗まれる。この流れはモリエールの戯曲の筋と変わらないが、ここでも上記の描写と同様の問題が起きた。巡査にいくら入っていたのか問われると、「上等のルイドールと重いピストールなんで。」と答えておきながら、誰を疑っているのか?と問われると「誰彼の差別無く皆悉。府内のもの、府下の者、悉く牢屋に打ち込んでください。」と答える。17世紀フランスの貨幣を口にした後で、20世紀の東京府を想起させる台詞を草野は吐かせたのであった。もっともこのように感じるのは、一世紀を経てこの翻訳を我々が読んでいるからであって、当時の観客たちはこういった描写を問題にするより、聞いたこともないフランスの貨幣に新鮮さを覚えたのかもしれない。この全集は2度発禁処分の憂き目に遭っている。一度目は『押しつけ結婚』が風紀紊乱に当たるとして、2度目は、検閲を受ける為の申請をせず定められた納本をしないままに出版したことが理由である。この全集には多少の瑕疵はあるが、モリエールの評伝が容れられている。後年出版された全集はこれに倣って評伝を附すのが通例になっている。 坪内士行の翻訳 (天佑社 刊行) 年号が大正に変わってから9年が過ぎた1920年に、坪内士行訳の『モリエール全集』が刊行された。これは草野訳『モリエエル全集』と同じく英訳版からの重訳とされているが、“ガルニエ・フラマリオン版”を曲がりなりにも底本として使用し、英訳本三種を力杖に翻訳しているので厳密な意味での重訳には当たらない。また草野訳に見られるような翻案ではなく、モリエールのテキストに忠実な翻訳が行われている。この全集の最大の特徴は、『タルチュフ』の一部を敢えて伏字にしている事である。坪内は草野の全集が発禁となったのは『タルチュフ』にその理由があると考え、その対処として伏字にすることで発禁処分を避けようとしたのである。但しこれは飽く迄も坪内の独自の解釈であり、伏字も自己検閲に過ぎない。実際これ以降終戦時までに出版された『タルチュフ』には伏字や削除の跡は見られない。 3、1923年~、フランス語原典からの翻訳大正末期になると、フランス語原典から翻訳が主となり、英訳版からの重訳は徐々に見られなくなり、昭和に入ると英語版からの重訳は無くなり、専らフランス語原典からの翻訳のみとなった。 井上勇の翻訳 (聚英閣 刊行) 坪内士行訳の『モリエール全集』が刊行された3年後の1923年に、井上勇訳の『ドン・ジュアン 外二篇』が刊行された。これが今の所確認されている中では最も古い、フランス語原典からの翻訳による刊本であり、巻頭の例言にアシェット版全集に據ったと記されている 吉江喬松らの翻訳 (中央公論社刊行) 昭和に年号が変わってから9年が過ぎた1934年に、当時旧制早稲田大学の教授だった吉江喬松の監修によって『モリエール全集』全三巻が刊行された。これは全くフランス語原典からの忠実な翻訳で、モリエールの詩曲33篇全てを収録している。この全集に附された邦題名のほとんどを、以後これに続く邦訳が踏襲するようになった。吉江はモリエールが人生批評の標準としたものは「人間の自然性の尊重であり、中庸の要求の声」であり、「この2つの基準は明智と達識と体験とに由らなければ建てられるものではない」とし、その作品については「当代時相を描きながら、人間性に徹して永久に生きる本質を備えてゐる」とした。特に『守銭奴』に関して、そこには「当代のブルジョワのタイプの一種」が描かれており、「尾崎紅葉が夏小袖としたのも、日本のブルジョワ文化の興隆しつつある時期に特にこの作に興味を惹かれたという点に意味がある」と考え、モリエールをオノレ・ド・バルザックの先駆的存在と評した。 日本人はこの全集によってようやく、モリエールの作品を通してその全体像を俯瞰することが可能となった。その功績は大きく、鈴木力衛は「モリエール翻訳史上の一大金字塔」と賛辞の言葉を述べている。 鈴木力衛の翻訳 (中央公論社刊行) 鈴木は1940年以来モリエールの翻訳に取り組んでいたが、1973年にモリエールの死後300年を記念して、中央公論社から全4巻からなるモリエール全集を刊行した。彼によれば、モリエールの全作品のうち日本で上演される可能性のあるもの、日本の観客に喜んでもらえそうな戯曲だけを選んで、およそ全作品30編のうち20編のみを収録することにしたとのことである。このように上演されることを想定して翻訳し、実際に上演の際の台本に用いられただけあって、その翻訳の平易、流麗さは、これまでの翻訳で群を抜いている。読売文学賞受賞。岩波文庫からも同様の翻訳が刊行されている。 秋山伸子、廣田昌義らの翻訳 (臨川書店刊行) モリエールの遺したテキストのすべてを訳出している。この点でこれまでの全集とは一線を画している。2000年から3年にわたって刊行された。現在の日本においては最も新しい全集である。
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日本への紹介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:37 UTC 版)
日本初演とされているのは1937年(昭和12年)2月27日、クラウス・プリングスハイム指揮の東京音楽学校管弦楽団、イングリッシュ・ホルン独奏は海軍軍楽隊から音楽学校に派遣されていた原功男である。なお、この際の曲名表記は「黄泉の白鳥」となっていた。
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日本への紹介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 08:44 UTC 版)
「パストラル・コミック」の記事における「日本への紹介」の解説
遺っているテクストが完全な形ではなく、断片であるが故か、この作品は我が国[どこ?]ではこれまで紹介される機会がほとんど無かった。病床にある鈴木力衛の代わりに資料の蒐集に当たった金川光夫による型録に拠っても、「モリエール全集 1934年刊行版」収載のものしかなく、それ以降も「モリエール全集 2001年刊行版」まで待たないといけなかった。ただ、研究の為に訳したもの、個人で訳し篋底に秘しているものが存する可能性はあり、これらが日の目を見る機会が今後来るかもしれない。
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日本への紹介
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/29 08:45 UTC 版)
翻案という形ではあるが、現在判明している中では最も早くに日本語に翻譯された作品である。明治19年(1886年)10月31日~11月23日に読売新聞紙上において『南北梅枝態』と言う題名で連載された。訳者は「湖東生」と言う人物だが、彼については何者なのか未だ詳らかではない。
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日本への紹介
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「トリストラム・シャンディ」の記事における「日本への紹介」の解説
日本には、1897年に夏目漱石によって初めて紹介され、『吾輩は猫である』に影響を与えたとされる。なお英文学者でもあった作家伊藤整の『得能五郎の生活と意見』、『伊藤整氏の生活と意見』は、題名を拝借したものである。 原文は難解を極め長い間翻訳されなかったが、1966年に朱牟田夏雄による全訳『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』が、筑摩書房「世界文学大系」で、リチャードソン『パミラ』との合本で刊行。1972年に新版刊行し重版されている。 朱牟田訳は、1966年度の読売文学賞(研究・翻訳賞)を受賞。1968年に大型限定版(箱入り全1巻、筑摩書房)が刊行した。1969年に『トリストラム・シャンディ』に改題し岩波文庫で刊行。
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