日本への紹介とは? わかりやすく解説

日本への紹介

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ローレンス・スターン」の記事における「日本への紹介」の解説

ローレンス・スターン日本初め紹介したのは夏目漱石である。1897年明治30年)に漱石は『トリストラム、シャンデー』と題する文章発表自身小説吾輩は猫である』などでも影響を受けたものと見られる

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K-ROCK (韓国の音楽)」の記事における「日本への紹介」の解説

K-POP比べれば規模限られているが、K-ROCK日本にも各種プロモーション活動公演行なうようになっている近年では、ユン・ドヒョン(韓国語版)が率いYB (バンド)(韓国語版)が、代表的バンドとして日本にも紹介されている。

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オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」の記事における「日本への紹介」の解説

日本へは近衛秀麿によって比較早く紹介され1927年昭和2年)と1930年昭和5年)に近衛指揮新交響楽団ソリスト団員)によって演奏されている。近衛その後1937年昭和12年)にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と同曲を録音し1954年昭和29年)の近衛管弦楽団第14回定期演奏会でも演奏さらには1970年昭和45年)のハインツ・ホリガー初来日の際に、日本フィルハーモニー交響楽団オーボエ以外のソリスト団員)を指揮している。なお、ベルリン・フィル録音ではオーケストラのみの部分に数か所のカットがあり、近衞自身考えによると考えられるが、現下CD評などで、それに言及したものはない。 一方レヴィンとリースンによる復元版2004年平成16年)に小澤征爾指揮水戸室内管弦楽団によって演奏されCD録音された。なお、小澤それ以前演奏(たとえば1987年昭和52年)の桐朋学園オーケストラ宮本文昭千葉馨など)では慣行版を用いていた。つまり水戸では宮本文昭今度は同じ指揮者レヴィン版演奏することになった

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ヴァン・ダインの二十則」の記事における「日本への紹介」の解説

雑誌新青年1930年昭和5年6月号に「探偵作家心得二十ヶ條」として掲載された。小河原幸夫訳。ヴァン・ダイン寄稿よるものであり、編集部宛書簡の一部掲載された。

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トム・ピリビ」の記事における「日本への紹介」の解説

この曲には、日本語の歌詞付けられNHK『みんなのうた』前後2回、異な歌詞取り上げられた。まず1961年に、ダーク・ダックス訳詞歌唱よるもの放送された。同じ1961年に、ダーク・ダックスシングルすずらん』(キングレコード規格品番:EB-7027)のB面に「トンピリビ」の曲名収録された。このバージョンは、原曲の歌詞見え地名スコットランド意味する「エコース」とモンテネグロを指す「モントネグロ」)がそのまま訳出されているものの、主人公トム・ピリピが実は嘘つきだというオチ表現されていない1965年には水野汀子の訳詞ペギー葉山歌唱よるもの放送された。こちらでは、原曲同様に歌詞3番主人公が「大ボラ吹き」であることが明かされる。 なお映像双方とも中原収一製作となっているが、1965年版1961年版と同じ映像か、あるいは新撮かは一切不明水野汀子の訳詞版は1974年高校の、1975年中学校音楽教科書掲載された。 水野汀子の訳詞版はビリー・バンバン天地総子塩野雅子鮫島有美子などにカバーされている。

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夢のお月様」の記事における「日本への紹介」の解説

英語の原題は「今夜(が後の夜かもしれない)」といった意味であり、初期には「今宵こそは」という曲名紹介されたという。 「夢のお月様」は、漣健児がつけた邦題であり、ザ・ヴェルヴェッツの日本盤もこのタイトル発売された。漣は日本語の訳詞も手がけ、この日本語詞による歌唱紀本ヨシオよるものがある。

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ヘカテー」の記事における「日本への紹介」の解説

江戸時代地理学者山村才助著した西洋雑記』では、「ヘカッテ(ヘカテー)」についての言及がある。 [中略]歳星の女を「ヂアナ」といふ。世に是を猟神と称す。此神神廣大にして。一體三名あり。天に在りては「マーン」(月輪を云)と現じ世界にありてハ「ヂアナ」と称し地獄にありてハ「ヘカッテ」と號す。

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アルフレッド・セイヤー・マハン」の記事における「日本への紹介」の解説

同時代日本においてマハン著作・思想紹介導入応用関わった人物として、金子堅太郎肝付兼行小笠原長生佐藤鉄太郎寺島成信がいた。それぞれの項目を参照

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ルドルフ・シュタイナー」の記事における「日本への紹介」の解説

1912年には、明治・大正期教育界活躍した隈本有尚1860年 - 1943年)による「宗教的道徳的情操教養上見神派の心理学応用」(1912年、『丁酉倫理倫理講演集』)によって、シュタイナー教育思想日本紹介された。 1925年から14年ドイツ人哲学者フリッツ・カルシュ旧制松江高等学校(現島根大学)にて教鞭を執っていたが、その授業の中で人智学教えている。カルシュマールブルク大学在学中ゲーテアヌムシュタイナー直接会ったのをきっかけ人智学傾倒しており、人智学に関して綴ったノートを妻エッメラ宛に送っている。また、長女メヒテルトは関連文献英語訳者として活動次女フリーデルンはマールブルクシュタイナー学校通い自由ヴァルドルフ学校シュタイナー教育従事日本人親子指導したとされる1920年代には、シュタイナー設計したゲーテアヌム」を現地見て感激した早稲田大学今井兼次教授によって、日本の建築関係者達の間で知られるようになった1970年代頃から、娘の教育のため、家族ドイツ留学した早稲田大学教授の子安美知子が『ミュンヘン小学生 : 娘が学んだシュタイナー学校 』(中公新書 1975年)を初めとした一連の教育体験報告反響呼び新し教育方法としてシュタイナー教育注目された。 1970年代後半になって哲学関係の出版社イザラ書房」がシュタイナー翻訳出版(『神智学1977年)を始める。 1996年には、NHKNHK衛星第2テレビジョンの「素晴らしき地球の旅」という番組で、シュタイナー教育を行うヴァルドルフ学校紹介された。 また、イタ・ヴェーグマン医師シュタイナー共同創始したシュタイナー医学に関しては、2004年春から、「ゲーテアーヌム精神自由大学」の主催医師向けの専門的な訓練日本国内でも開始されており、2005年5月5日には「日本アントロポゾフィー医学のための医師会」が設立された。 2000年・2001年には、東京大阪で、シュタイナー生涯通じてひそかに書きためていた600冊のノート分析して思想探り、うち100冊を公開する展覧会開催された。(4月14日から8月27日東京ワタリウム美術館で、2001年3月3日から4月5日KPOキリンプラザ大阪開催。)翻訳シュタイナー研究者人智学徒の高橋巖

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ユージン・サンドウ」の記事における「日本への紹介」の解説

サンドウトレーニング法は、明治時代欧州視察中にサンドウ知った嘉納治五郎によって日本にも紹介された。

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イリヤ・ワルシャフスキー」の記事における「日本への紹介」の解説

1967年大光社「ソビエトS・F選集」の第五巻として、個人短編集夕陽の国ドノマーガ』(草柳雄編訳、18作を収録)が刊行されている。それ以外まとまった翻訳はなされていないが、「SFマガジン」や各社短編集訳載された作品合計23編になる。

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トランジション・タウン」の記事における「日本への紹介」の解説

2008年3月イギリスエコビレッジ、フィンドフォーンで暮らしていた榎本英剛が、日本への帰国前にして、ともにパーマカルチャー学んだ仲間をフィンドホーンに招待した際にロブ・ホプキンスと面会したホプキンスワークショップ参加した榎本仲間は、トランジション・タウンの持つ循環型の地域づくり考え方賛同して帰国神奈川県藤野葉山東京小金井の三か所で、日本ではじめてのトランジション・イニシアチブを開始した

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ファントマ」の記事における「日本への紹介」の解説

日本ではまず最初映画5作が、1915年大正4年)に浅草電気館にて以下の邦題公開された。 『ファントマ/ベルタム事件』(『ファントマ』) 『ファントマ/不思議な指紋』(『ファントマジューヴ警部』) 『ファントマ/黒衣の人』(『ファントマ逆襲』) 『ファントマ/仮面舞踏会』(『ファントマファントマ』) 『ファントマ/偽りの長官』(『ファントマ偽判事』 この前公開された『ジゴマのような大きな人気とはならなかったが、1917年谷崎潤一郎短篇魔術師」では、Fantomasが「世界中人間好奇心唆した活動写真として言及されている。 1921年大正10年になって小説翻訳され以後以下が刊行されている。 『犯罪王対探偵王』Juve contre Fantômas 武田玉秋訳、紅玉堂、1921年大正10年) 『謎の死美人』L'Assassin de Lady Beltham 武田玉秋訳、紅玉堂、1921年大正10年) 『幻の兇笑』Fantômas松村博三訳、博文館探偵傑作叢書)、1923年大正12年)(1921年新青年』に前半部分連載後に単行本化後半部分は訳されず) 『幻賊』Fantômas田中早苗訳、白水社1931年昭和6年) 『新青年』版 1937年昭和12年)に『ジゴマ』に続いて別冊付録として久生十蘭によって翻訳され博文館文庫として単行本化。十この後執筆した長篇小説魔都』の冒頭部分は、ファントマ第5作Un Roi prisonnier de Fantômas基づいている。『ファントマ第一Le Mort qui tue 久生十蘭訳、博文館1937年(コーベブックス、1975年) 『ファントマ第二Fantômas・Juve contre Fantômas 久生十蘭訳、博文館1937年 ハヤカワ文庫版ファントマFantômas 佐々木善郎訳、早川書房1976年ファントマジューヴ警部』Juve contre Fantômas 佐々木善郎訳、早川書房1978年ファントマ逆襲Fantômas se venge 佐々木善郎訳、早川書房1978年 このほか、水谷準による翻案がある。水谷道夫名義で『翻倒馬殺人譜』として『朝日1931年6月号 - 12月号に連載され単行本への再録際し殺人狂想曲』と改題された。舞台日本移されており、登場人物日本名となっているが、翻倒馬(ファントウマ)と什武(じゅうぶ)探偵は元の名のままとなっている。 水谷準殺人狂想曲 他2編』春陽堂書店春陽文庫〉、1995年

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ヒロイック・ファンタジー」の記事における「日本への紹介」の解説

日本への紹介は、1970年昭和45年)に団精二荒俣宏筆名)と鏡明ロバート・E・ハワードの『英雄コナンシリーズ翻訳したことからはじまった。「魔道」「魔道士」はこのときの荒俣造語である。他のヒロイック・ファンタジー作品多く翻訳されたが、その後ほとんどが絶版となった1970年代以降には、主にSF作家によってヒロイック・ファンタジー作品発表され主なものとして 豊田有恒:『ヤマトタケルシリーズ日本武尊SF神話シリーズ高千穂遙:『美獣』『異形三国志田中光二:『ヘリックシリーズ 栗本薫グイン・サーガ がある。 2000年代入りファンタジーブームは終息したが、絶版となっていた『英雄コナンシリーズ2006年平成18年)に26年ぶりに新訳再刊された。また、2007年平成19年)には英雄コナンを基にしたアクションゲームCONAN』が発売された。 2010年代入り小説投稿サイト小説家になろう」に投稿され複数小説きっかけに再びファンタジーブームが起き一部作品書籍化や各メディア展開などが行われている。

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モリエール」の記事における「日本への紹介」の解説

日本におけるモリエール受容の歴史は、およそ大別して3つの時期に分けることができる。 1、1886年1904年頃、英訳本からの重訳 尾崎紅葉翻案 日本においてモリエール初め紹介されたのは、1886年のことであった。『女房学校』が湖東生という人物によって『西洋風滑稽演劇 南北梅枝態(かげひなたうめのえだぶり)』として翻案されたのである。この作品読売新聞上にて、同年10月31日から11月23日まで連載された。この「湖東生」なる人物実際のところ、どういった人物かよくわかっていない。 これについで、その6年後の1892年には尾崎紅葉が『守銭奴』、『いやいやながら医者にされ』を翻案しそれぞれに夏小袖』、『恋の病』という題名をつけた。『夏小袖』は春陽堂書店から刊行され、『恋の病』は読売新聞上にて連載された。『夏小袖』は出版当時紅葉の名は伏せられ巻末付した投票用紙作者名を当てるという懸賞付き作品であった泉鏡花清書行ったため、彼と春陽堂主人以外は紅葉作者であることを知らなかったという。この懸賞話題読んで様々な論評同作加えられることとなった作者紅葉であることは、再版発行後に春陽堂広告において告知されたが、その際予想的中させた340名の氏名掲載し、以下のような序文添えている。 原文:一拙著今般一時出来心より不文をも省みず貴著ラヴール事守銭奴我儘添削仕り盈流なる貴姓に紛はし変名にて夏小袖題する新板発行致候段高作の體面汚しなんとも申訳無之剰へ氏名投票懸賞仕り世人を惑はし候条重々不埒恐入候向後は相搆へて右様不都合間敷偽証として所持英訳モリエル集三巻焚捨可申万一文盲の輩夏小袖を一覧候のみにて貴殿技倆彼此申出に於ては拙者引受け玉石辯明可仕詫証仍て如件 - 明治壬辰十一月 尾崎紅葉 モリエル殿訳:出来心から、文章力のなさを省みずあなたの作品であるラヴール(L'Avare)こと『守銭奴』を思うがままに翻案致しました上に、「盈流」というあなたのお名前紛らわし変名用いて夏小袖』という題名作品発表し、あなたの作品汚してしまったこと、あまつさえ作者当てる懸賞行って世間皆様お騒がせしたことなど、度重なる不埒行為申し訳なく思います今後このようなとがないようにするために、私が持っている英訳本モリエル集三巻を、焼き捨てることにしました万が一夏小袖』に目を通しただけで、あなたの劇作能力ああだこうだケチをつける者が出てきた場合には、前述のとおり、私が弁明引き受けることと致します。 - 1892年11月 尾崎紅葉 モリエール殿 この序文にある「所持英訳モリエル集三巻」とは、研究の結果、1883~87年刊行され英訳本であることが判明している。余談だが、同じ本を夏目漱石所持していたという。1897年には舞台で伊井蓉峰率い一座によって初演が行われ、1912年までの15年間で毎年日本各地上演続けられた。日本国内だけでなくアメリカで上演され大成功収めている。 『夏小袖』の登場は、日本へのモリエール紹介大きく貢献しただけでなく、ひとつの演劇作品としても画期的であった1903年2月の「歌舞伎」という雑誌掲載された伊臣紫の「夏小袖の評」には以下のような記述がある; 原文:新演劇二番目または大切には、喜劇と云へるもの無くては叶はぬ様になりて、果は愚にも附かぬ擽りや、洒落種の駄物に迄、喜劇二字を冠せて演ずることの流行ども、所謂喜劇なるものを、舞台にかけて成功せしは、伊井一座が此夏小袖明治三十十月眞砂座にて演じたるが始にて、紅葉山人作の名文を其儘科白作し高尚にして平易な滑稽劇の好標本示してより、續て山人戀の病八重等、皆此座の専賈品となりしが、就中夏小袖は、數回手に入り俳優の伎は益々熟達の域に達せり。抄訳:新演劇演目には、喜劇呼べるものが必要になったが、まるで喜劇呼べない駄作にまで「喜劇」銘打って上演にかけるのが流行となっていた。いわゆる(本物の)喜劇というものを舞台にかけて成功したのは、伊井蓉峰率い一座がこの『夏小袖』を明治30年10月真砂座において上演したのが最初であった尾崎紅葉先生名文そのまま台本として、高尚だわかりやすい滑稽劇の良い見本示してから、『恋の病』や『八重』など、先生作品続々上演したが、とくに『夏小袖』は繰り返し上演され俳優演技がどんどん上達していった。 この評に見えるように、下らない駄作にまで喜劇冠して上演していたところに夏小袖』が現れ、(本物の)喜劇として上演され成功収めた明治時代後期演劇界では、伝統演劇堕落への反省から、新風吹き込むために西洋喜劇換骨奪胎試みられていた。その試みにおいて紅葉の夏小袖』が大成功収めたことで、モリエール持て囃す風潮興ったのである。ところが、こうして訳されモリエール翻訳作品は単に素材借りただけのものに過ぎずモリエール作品やその意図正確に移植しようという考えは、この時期にはまだほとんど見られない。これは西洋日本文化伝統あまりに隔絶されていたことも一因である 2、1904年1926年英訳本からの重訳 草野二の翻訳翻案 (金尾文淵堂1908年・1916年)、加島至誠堂1911年以前刊行) 1904年になって草野二が英訳本を底本としたモリエール戯曲の翻訳雑誌連載し、それらのうち15作品まとめて『モリエエル全集』を刊行した全集としては日本初のものである翻案の域を出ていない。草野は、その序文で「翻訳称すと躍、じつはこの中拙劣な翻案を混れり。是等後年更に翻訳して読者にまみゆべし。」と述べていることから、翻訳翻案区別はついていたもの考えられるが、この場合翻訳現代考えるようなそれではない。草野翻訳モリエールテキスト忠実ではあるが、戯曲舞台日本設定し登場人物をすべて日本人としてしまったので無理が生じ、実に珍妙な描写生まれてしまった。以下はそれに該当する草野訳の『守銭奴』の描写である。先述たように登場人物日本人だから、主人公のアルパゴンは兵衛、「とりもちばばあ」のフロジーヌは「奉公世話焼婆」のお欲として描かれている。 兵衛:だがお欲、お前、あの母親が娘につけてよこす持参金のことを話したかい、(中略)何か持参のある娘でないと貰ふ人はないのだから。お欲:どう致しまして旦那様、あのお娘は年に一万二千フラン実入りがあるのでございます兵衛:年に一万二千フラン見ればわかるように、日本人同士会話でいきなりフランス貨幣登場するこの後場面で兵衛は命より大切にしていた貯金箱盗まれる。この流れモリエール戯曲の筋と変わらないが、ここでも上記描写同様の問題起きた巡査にいくら入っていたのか問われると、「上等のルイドールと重いピストールなんで。」と答えておきながら、誰を疑っているのか?と問われると「誰彼差別無く皆悉。府内のもの、府下の者、悉く牢屋打ち込んでください。」と答える。17世紀フランス貨幣を口にした後で20世紀東京府想起させる台詞草野は吐かせたのであった。もっともこのように感じるのは、一世紀経てこの翻訳を我々が読んでいるからであって当時観客たちはこういった描写問題にするより、聞いたともないフランス貨幣新鮮さ覚えたのかもしれない。この全集2度発禁処分憂き目遭っている。一度目は『押しつけ結婚』が風紀紊乱に当たるとして、2度目は、検閲を受ける為の申請をせず定められ納本をしないままに出版したことが理由である。この全集には多少瑕疵はあるが、モリエール評伝が容れられている。後年出版され全集はこれに倣って評伝附すのが通例になっている坪内士行翻訳 (天佑社 刊行) 年号大正変わってから9年過ぎた1920年に、坪内士行訳の『モリエール全集』が刊行された。これは草野訳『モリエエル全集』と同じく英訳版からの重訳とされているが、“ガルニエ・フラマリオン版”を曲がりなりにも底本として使用し英訳三種を力翻訳しているので厳密な意味での重訳には当たらない。また草野訳に見られるような翻案ではなくモリエールテキスト忠実な翻訳が行われている。この全集最大特徴は、『タルチュフ』の一部敢えて伏字にしている事である。坪内草野全集発禁となったのは『タルチュフ』にその理由があると考え、その対処として伏字にすることで発禁処分避けようとしたのである。但しこれは飽く迄も坪内の独自の解釈であり、伏字自己検閲に過ぎない実際これ以降終戦時までに出版された『タルチュフ』には伏字削除の跡は見られない。 3、1923年~、フランス語原典からの翻訳大正末期になると、フランス語原典から翻訳が主となり、英訳版からの重訳徐々に見られなくなり昭和に入ると英語版からの重訳無くなり専らフランス語原典からの翻訳のみとなった井上勇翻訳 (聚英閣 刊行) 坪内士行訳の『モリエール全集』が刊行され3年後1923年に、井上勇訳の『ドン・ジュアン 外二篇』が刊行された。これが今の所確認されている中では最も古い、フランス語原典からの翻訳による刊本であり、巻頭例言アシェット全集に據ったと記されている 吉江喬松らの翻訳 (中央公論社刊行) 昭和年号変わってから9年過ぎた1934年に、当時旧制早稲田大学教授だった吉江喬松監修によって『モリエール全集』全三巻刊行された。これは全くフランス語原典からの忠実な翻訳で、モリエール詩曲33全て収録している。この全集附され邦題名のほとんどを、以後これに続く邦訳踏襲するようになった吉江モリエール人生批評標準したものは「人間自然性尊重であり、中庸要求の声」であり、「この2つ基準明智達識と体験とに由らなければ建てられるものではない」とし、その作品については「当代時相描きながら、人間性徹して永久に生きる本質備えてゐる」とした。特に『守銭奴に関して、そこには「当代ブルジョワタイプ一種」が描かれており、「尾崎紅葉夏小袖としたのも、日本ブルジョワ文化の興隆しつつある時期に特にこの作に興味惹かれたという点に意味がある」と考えモリエールオノレ・ド・バルザック先駆的存在評した日本人はこの全集によってようやく、モリエール作品通してその全体像俯瞰することが可能となった。その功績大きく鈴木力衛は「モリエール翻訳史上一大金字塔」と賛辞言葉述べている。 鈴木力衛翻訳 (中央公論社刊行) 鈴木1940年以来モリエール翻訳取り組んでいたが、1973年モリエール死後300年記念して中央公論社から全4巻からなるモリエール全集刊行した彼によれば、モリエール全作品のうち日本上演される可能性のあるもの、日本観客喜んでもらえそうな戯曲だけを選んで、およそ全作品30編のうち20編のみを収録することにしたとのことである。このように上演されることを想定して翻訳し実際に上演の際の台本用いられだけあって、その翻訳平易流麗さは、これまでの翻訳群を抜いている。読売文学賞受賞岩波文庫からも同様の翻訳刊行されている。 秋山伸子廣田昌義らの翻訳 (臨川書店刊行) モリエールの遺したテキストのすべてを訳出している。この点でこれまでの全集とは一線を画している。2000年から3年わたって刊行された。現在の日本においては最も新し全集である。

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トゥオネラの白鳥」の記事における「日本への紹介」の解説

日本初演とされているのは1937年昭和12年2月27日クラウス・プリングスハイム指揮東京音楽学校管弦楽団イングリッシュ・ホルン独奏海軍軍楽隊から音楽学校派遣されていた原功男である。なお、この際曲名表記は「黄泉白鳥となっていた。

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パストラル・コミック」の記事における「日本への紹介」の解説

遺っているテクストが完全な形ではなく断片であるが故か、この作品我が国[どこ?]ではこれまで紹介される機会がほとんど無かった病床にある鈴木力衛代わりに資料蒐集当たった金川光夫による型録拠っても、「モリエール全集 1934年刊行版」収載のものしかなく、それ以降も「モリエール全集 2001年刊行版」まで待たないといけなかった。ただ、研究為に訳したもの、個人訳し篋底秘しているものが存する可能性はあり、これらが日の目を見る機会今後来るかもしれない

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女房学校」の記事における「日本への紹介」の解説

翻案という形ではあるが、現在判明している中では最も早く日本語に翻譯された作品である。明治19年(1886年)10月31日11月23日読売新聞紙上において『南北梅枝態』と言う題名連載された。訳者は「湖東生」と言う人物だが、彼については何者なのか未だ詳らかではない。

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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 09:14 UTC 版)

トリストラム・シャンディ」の記事における「日本への紹介」の解説

日本には、1897年夏目漱石によって初め紹介され、『吾輩は猫である』に影響与えたとされる。なお英文学者でもあった作家伊藤整の『得能五郎の生活と意見』、『伊藤整氏の生活と意見』は、題名拝借したのである原文難解極め長い間翻訳されなかったが、1966年朱牟田夏雄による全訳紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』が、筑摩書房世界文学大系」で、リチャードソンパミラ』との合本刊行1972年新版刊行重版されている。 牟田訳は、1966年度の読売文学賞研究翻訳賞)を受賞1968年大型限定版箱入り1巻筑摩書房)が刊行した1969年に『トリストラム・シャンディ』に改題し岩波文庫刊行

※この「日本への紹介」の解説は、「トリストラム・シャンディ」の解説の一部です。
「日本への紹介」を含む「トリストラム・シャンディ」の記事については、「トリストラム・シャンディ」の概要を参照ください。

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