福岡藩士とは? わかりやすく解説

福岡藩士

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 16:34 UTC 版)

平野国臣」の記事における「福岡藩士」の解説

文政11年1828年3月29日福岡藩足軽平野吉郎右衛門二男生まれる。父・吉郎右衛門千人もの門人抱え神道夢想流杖術遣い手役務精勤して士分取り立てられている。天保12年1841年)、国臣は足軽鉄砲頭・小金丸彦六養子になった弘化2年1845年)に江戸勤番命じられ江戸上っている。嘉永元年1848年)に福岡帰国後、小金丸の娘のお菊結婚し一男(六平太)をもうける。嘉永4年には宗像大社沖津宮普請のため宗像郡大島(現宗像市)に赴任した福岡では漢学亀井暘春、国学富永漸斎に学び尚古主義日本本来の古制尊ぶ思想)に傾倒するまた、お由羅騒動薩摩藩から宗像大島亡命していた島津斉彬側近北条右門木村中之丞)と親交持っているペリー来航した嘉永6年1853年)に再び江戸勤番になり、江戸で剣術国学和歌などの学問励んだ。さらに水戸藩会沢正志斎新論触れたことで尚古主義本格的になっており、安政元年1854年)に帰国する際に古制の袴を着て古風な太刀差して出立した当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々苦笑したが、本人得意満面だったという。 安政2年1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子直垂異風な姿で出歩くようになった現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。これには養家迷惑し、国臣を咎めるようになり、結局離縁して平野家戻ったこの頃に名を「国臣」と称するようになったまた、この時に藩務を辞職して無役の厄介となっている。この頃梅田雲浜出会い国事についての知識得た。 国臣の尚古主義止まず安政4年1857年)には藩主犬追物復活直訴し、無礼として幽閉されている。この時に月代伸ばしたままにして総髪にした。月代古制ではないというのが平野考えであり、後には浪士中心に総髪流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代置かないのは異様である。国臣は優れた学才このような過激な言動から、人望集めようになった

※この「福岡藩士」の解説は、「平野国臣」の解説の一部です。
「福岡藩士」を含む「平野国臣」の記事については、「平野国臣」の概要を参照ください。

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