福岡藩士
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文政11年(1828年)3月29日、福岡藩足軽・平野吉郎右衛門の二男に生まれる。父・吉郎右衛門は千人もの門人を抱える神道夢想流杖術の遣い手で役務に精勤して士分に取り立てられている。天保12年(1841年)、国臣は足軽鉄砲頭・小金丸彦六の養子になった。 弘化2年(1845年)に江戸勤番を命じられ、江戸に上っている。嘉永元年(1848年)に福岡へ帰国後、小金丸の娘のお菊と結婚し、一男(六平太)をもうける。嘉永4年には宗像大社沖津宮普請のため宗像郡大島(現宗像市)に赴任した。福岡では漢学を亀井暘春、国学を富永漸斎に学び、尚古主義(日本本来の古制を尊ぶ思想)に傾倒する。また、お由羅騒動で薩摩藩から宗像の大島へ亡命していた島津斉彬の側近・北条右門(木村中之丞)と親交を持っている。ペリーが来航した嘉永6年(1853年)に再び江戸勤番になり、江戸で剣術と国学や和歌などの学問に励んだ。さらに水戸藩の会沢正志斎の新論に触れたことで尚古主義は本格的になっており、安政元年(1854年)に帰国する際に古制の袴を着て、古風な太刀を差して出立した。当時の人々の目からはかなり異様な姿で、見送る人々は苦笑したが、本人は得意満面だったという。 安政2年(1855年)に長崎勤務となり、ここで有職故実家・坂田諸遠の門人となり、その影響で国臣の尚古主義はさらに激しいものとなり、福岡に戻ると仲間とともに烏帽子、直垂の異風な姿で出歩くようになった(現代ならば侍の姿で街を歩くようなもの)。これには養家も迷惑し、国臣を咎めるようになり、結局、離縁して平野家へ戻った。この頃に名を「国臣」と称するようになった。また、この時に藩務を辞職して、無役の厄介となっている。この頃に梅田雲浜と出会い、国事についての知識を得た。 国臣の尚古主義は止まず、安政4年(1857年)には藩主に犬追物の復活を直訴し、無礼として幽閉されている。この時に、月代を伸ばしたままにして総髪にした。月代は古制ではないというのが平野の考えであり、後には浪士を中心に総髪が流行ったが、この時期、一応は武士の国臣が月代を置かないのは異様である。国臣は優れた学才とこのような過激な言動から、人望を集めるようになった。
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