福岡藩の説得
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/14 23:14 UTC 版)
12月1日、福岡藩士越智小平太、真藤登、喜多岡勇平が長府(現在の下関市長府)の五卿を訪れ、朝廷及び幕府の命令により九州の五藩が五卿を預かるという申し入れをしたが、五卿も諸隊も断固拒否した。 越智は諸隊の様子について、『過激輩は昨今にては髪も延し候て長さ肩を過ぎ 眼色は血走り死を決候気色にて』と記述した。越智らは、長州復権のためにも力を惜しまない事を五卿と諸隊幹部に説いた。さらに勅命が出たこと、五卿の家族も望んでいること、内戦を回避すべきこと等をしきりに説いて九州への移動を受け入れるようせまった。諸隊幹部は、福岡藩の義は忝なく思うが、薩賊と協力し征長軍が解かれない現状では、謀略でないか疑ってしまうと率直に言い、主君が朝敵と称せられ、奸臣が周りを囲んで居る現状において、五卿まで去られては長州を回復することができないと言った。喜多岡は諸隊幹部の率直さに感動したものの、交渉自体は暗礁に乗り上げてしまい、説得を諦め小倉へ帰った。 12月3日、今度は福岡藩の月形洗蔵が功山寺に赴き、五卿の筆頭、三條実美と面会した。前日諦めた越智・喜多岡はと違い、月形は粘り強く交渉し、五卿が九州に渡れば、福岡藩と薩摩藩は五卿と長州藩の赦免に必ず力を尽くすと約束し、さらに他の条件は履行されている事を伝えた。 この日、三條は多少軟化した。三條は、世話になった長州藩が正義派・俗論派にわかれ内戦寸前であり、これを放置したまま九州へは渡れないと言った。そして長州藩の騒動が収まれば九州へ行くと言い、九州に住居する際も、五人別々ではなく全員一緒でありたい等の要望も出した。 同日、五卿の従者である中岡慎太郎が小倉に赴き、五卿帯同の脱藩浪士は五卿の九州行きについて、条件付きながら賛成すると伝えた。条件としては長州藩の面目を立てる事であり、現状では征長軍の兵威を恐れて五卿を差し出したと形となり面目が保たれない。征長軍解兵後であれば五卿の九州行に賛成する事を伝えた。 小倉に滞在していた西郷は、五卿の要望と中岡の条件について総督府と交渉するがまず受け入れられるだろうと語った。西郷は、優柔不断で朝令暮改な幕閣や、練度も士気の低い諸藩の様子を征長軍内で目の当たりにし幕藩体制の限界を感じていた。また福岡藩士は、長州の保全と薩摩との和解こそ攘夷派の最重要問題と考え、しきりに西郷に説いた。さらに本国・薩摩より長州の赦免に積極的に動くよう藩命が出されたようである。この時期を前後して西郷は長州の減封について発言しなくなり、逆に長州の赦免に積極的に発言するようになり、長州内訌戦の阻止についても福岡藩士と協力するようになる。 五卿と脱藩浪士の同意に力を得た月形は、残る諸隊を説得するため、萩藩政府と諸隊との和解の仲介を目指し筑紫衛を萩に送った。 12月5日、長州藩より総督府へ藩主父子からの謝罪文書が提出された。 同日、長州藩は、薩摩から先月送還された長州人捕虜に対する厚遇に謝するため、山田重作に金品を持たせて薩摩藩に派遣した。 12月7日、萩に赴いた筑紫は、天樹院にて藩主父子に拝謁し、五卿の九州行のプロセスを説明した。そして筑紫は、正義派重鎮として野山獄にいた前田孫右衛門、楢崎弥八郎を解放し、諸隊説得と薩摩藩応接の任に付けるよう申し出た。おそらくこの案は、福岡藩士・西郷・長府の諸隊が打ち合わせて決めた、五卿九州行き承諾の為の条件であったと思われる。毛利敬親はこれを政府に検討させたが俗論派は拒否し、筑紫の仲裁は不発に終わった。
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