福岡航空交通管制部以前
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「福岡航空交通管制部」の記事における「福岡航空交通管制部以前」の解説
1954年(昭和29年)駐留米軍により運用されていた Fukuoka Control は 135.9MHz、137.88MHz、6740kHz、3105kHz(すべてA3)を使用していた。他に121.5MHz、8280kHz、8364kHz(遭難および緊急通信用)。 1955年(昭和30年)11月:米軍第1955管制通信中隊運営の福岡ARTCCに(板付、芦屋、築城、岩国が管轄飛行場)、日本人管制官7名がOJTのため着任。福岡ARTCCは板付飛行場東側地区に設置。 1956年(昭和31年)福岡ARTCCが廃止され ARTCC は東京のみとなる。代わって板付ラプコンが板付飛行場西側に新設された。日本人管制官が増員された。 1957年(昭和32年)駐留米軍により運用されていた航空路管制は 135.9MHz を使用して、コールサインは Itazuke Radio を使用してた。他に121.5MHz(遭難および緊急通信用)。板付飛行場進入管制のコールサインは Itazuke Approach Control で 137.88MHz、135.9MHz を使用していた。 1959年(昭和34年)福岡空港事務所に管制課が設置される。 1959年(昭和34年)駐留米軍により運用されていた航空路管制は 135.9MHz を使用して、コールサインは Itazuke Radio で運用されていた。他に121.5MHz(遭難および緊急通信用)。板付飛行場進入管制のコールサインは Itazuke Approach Control で 135.9MHz を使用していた。航空路管制と進入管制の区分けはあるものの同一周波数で運用されていた。 1961年(昭和36年)9月:米軍が行っていた北九州及び中国地方の一部エンルート業務を、米軍に代わり日本側で実施するため、航空交通管制本部長から福岡空港事務所長へ当該管制空域の委任が行われた。ラプコン内に福岡地区管制所が設置され、米軍と同居する形で日本人管制官が業務開始。 1965年(昭和40年)5月:運輸省設置法の改正により、福岡航空保安事務所の下部機構として福岡空港事務所福岡管制所が設置され、管制所の組織が制度化された。 1966年(昭和41年)3月5日:福岡市和白町奈多(当時)に庁舎を移転。前夜に米軍管制隊とのお別れパーティーが春日原米軍キャンプで開催された。奇しくも、カナダ太平洋航空の羽田空港着陸失敗事故の晩であり、翌日の移転初日にはBOACの富士山麓墜落事故が発生した。本省からの参加者が急遽帰京することになった。当時の管制官総数は27名。
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