平野氏
(平野家 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/16 00:25 UTC 版)
坂上氏
摂津国住吉郡平野荘(現在の大阪市平野区)を発祥とする氏族である。征夷大将軍・大納言の坂上田村麻呂の次男で、摂津国住吉郡平野荘の開発領主となり「平野殿」と呼ばれた坂上広野(坂上広野麻呂)のひ孫の秋田城介権守坂上行松(ゆきます、平野行増)が祖と伝わる。
平野七家
15世紀ころから台頭した平野氏は平野荘の民部と称し、その平野氏からは七家(末吉氏、土橋家、辻花氏、成安氏、西村氏、三上氏、井上氏)の庶流が起こり、これを「平野七名家」や「平野七家」と呼んだ。七家は、宗家の坂上氏を支え、中世の自治都市平野の自治に携わった。七家の中には、朱印船貿易で功績のあった末吉孫左衛門や、大坂道頓堀を通した成安道頓などがいる。
赤松氏家臣の氏族(摂津源氏/大江氏)
摂津源氏の一族で、源頼光の曾孫の源国直の孫である源頼高の三男の源頼重(平野頼重、平野三郎)の流れを汲むとも、大江氏の後裔で、鎌倉幕府政所筆頭の大江広元の流れを汲むともいわれる。また、上記の坂上氏族平野氏と同族ともされる。家紋は「丸に剣片喰」。
室町時代、赤松則村(円心)の重臣で、平野城主だった備前守平野忠勝の参り墓とされる宝筺印塔が神戸市東灘区御影町郡家寺の前にある。
北条氏
桓武平氏直方流と称した鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の北条惟時の子孫。江戸時代の旗本。明治時代の田原本藩藩主家。家紋は「丸に三つ鱗」、「九曜」。
賤ヶ岳の七本槍の一人、平野長泰は舟橋家清原枝賢の子、平野長治の子である。
平野長泰は豊臣秀吉に仕え、1595年(文禄4年)に大和国十市郡田原本5,000石の知行を与えられた[1]。関ヶ原の戦いを境に徳川秀忠に仕え、江戸時代を通して旗本交代寄合として存続した(ただし長泰の血統は2代長勝で途切れている)。
幕末維新期の当主長裕は、慶応4年・明治元年(1868年)3月に朝廷に早期帰順して5月に本領安堵された[2]。6月22日と7月9日付で元高5003石6斗6升1合と新田4998石1斗7升7合1勺7才4撮を合わせて1万1石8斗3升8合1勺7才4撮になるとする高直しを弁事役所に請願して認められ、7月14日付けで諸侯に昇格(田原本藩主)[2]。明治2年6月に華族に列し、明治17年の華族令公布で華族が五爵制になると子の長祥が男爵位が与えられた[2]。長祥は貴族院の男爵議員に6回当選して務め、豊山護法銀行頭取、大国銀行取締役、萬朝報社取締役などを歴任して実業家としても活躍[3]。
その子長克は古今東西の美術文学哲学の研究者、日本神代史、上古史、風俗史を専門とする史学研究家でもあり、日本芸術院総裁、日本国史院総裁をはじめとして様々な美術・文学・哲学・歴史の研究所や協会の役員を務めた[3]。また複数の言語を話せたマルチリンガルであり、日本エスペラント協会幹事も務めた[3]。彼の代に平野男爵家の邸宅は東京市中野区千光前町にあった[4]。
清和源氏頼光流
摂津源氏の源頼光の流れを汲む一族。摂津国川辺郡多田庄を発祥とし、上記の赤松円心の重臣の平野備前守忠勝が知られる平野氏。
清和源氏満政流
清和源氏2代目の源満仲の弟の源満政の子孫という一方、河内の古代氏族の日下部氏の子孫ともいわれる。南朝方の武将に、楠木正成と共に鎌倉幕府軍を赤坂城で迎え撃った平野将監重吉がいる。
卜部氏系
卜部氏の一族。卜部氏分流の藤井家が山城国の平野神社の宮司となる。
惟宗氏康友流
惟宗氏の惟宗康友が、禁裏薩摩国新田宮八幡執印職を与えられて号した執印氏(鹿児島氏とも)のその庶流。系図上では康友の子鹿児島三郎友家を祖とするが、友家は同庶流の羽島氏の祖ともされ不詳。
脚注
出典
参考文献
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。 ISBN 978-4642014724。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
平野家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 09:38 UTC 版)
(土佐国(現在の高知県)、東京都) 平野家の初代弥市は土佐国(現在の高知県)に生まれ、安永の頃(1772年〜1780年)兄・藤兵衛と共に江戸(現在の東京都)に出た。藤兵衛は駒込の酒問屋「高崎屋」に奉公し、後に同家支配人になった。弥市は両国米沢町で生魚渡世ののち、文政11年(1828年)、薩州(薩摩藩)屋敷の仕立物用達出入りとなる。土蔵付きの瀟洒な家に住み、高輪にも家付きの地所があるかなりの資産家だった。 祖母・幸(初代平野弥市の養女) 父・弥十郎(飯田利兵衛の次男、2代目平野弥市) 『平野弥十郎幕末・維新日記』、日本財団図書館(電子図書館) 平成15年度 海事講演会 海・船セミナー2003 ?ペリー来航150周年記念?「黒船来航、その時日本は」 - 伊藤の実父・平野弥十郎についての記述がある。 母・とみ(とみの父は秋月藩士(留守居役)某の息子、母は上田藩士藤林小伝次の娘ます) 『平野弥十郎日記 嘉永四辛亥年(一八五一)』によると「是年七月、我か妻とみの実母の生死存亡住所共知れざりしか、今度漸々尋当、十四年目にしてとみ事、実母に面会したり、此時実母は年四拾才にて、名ハ藤林ますなり、同人の伯父なる、牛込筑土五軒町に住む、宝蔵院流鎗術の師範、伊能一雲斎方に居、聊もふ自由なく安全に在りたり…ますハ信州上田城主五万三千石松平伊賀守藩士にて、藤林小伝次の娘なり、母は前陳の筑土伊能一雲の姉なり、父の小伝次は江戸詰にて、神田筋違御門内上屋敷内に在て、其頃高名の馬術師範たり時、文化九申年(一八一二)七月八日にます出生す、夫より天保三年(一八三二)の頃にますへ婿を取る、是は秋月の城主五万石の黒田家の留守居某の男、其名を聞洩したり、天保五午七月三日に、ます事女子を産、是れ、とみなり」という。 兄 大太郎 弥三郎 直之助 弟 幸之助 両吉(中村家の養子) 松之助(3代目平野弥市) 姉 仲(外務省勤務の旧大垣藩士・尾崎逸足の妻) 妹 千代(宗教家・教育者の大島正健の妻) たか まち
※この「平野家」の解説は、「伊藤一隆」の解説の一部です。
「平野家」を含む「伊藤一隆」の記事については、「伊藤一隆」の概要を参照ください。
- 平野家のページへのリンク