末吉孫左衛門とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 実業家 > 経営者 > 日本の実業家 > 末吉孫左衛門の意味・解説 

すえよし‐まござえもん〔すゑよしまごザヱモン〕【末吉孫左衛門】

読み方:すえよしまござえもん

[1570〜1617江戸初期商人大坂の人。名は吉安徳川家康厚遇を受け、朱印船巨利得た銀座役人になり、河内(かわち)国で代官つとめた


末吉孫左衛門

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/22 15:01 UTC 版)

末吉孫左衛門吉康肖像画、末吉家所蔵
末吉船絵馬、寛永10年(1633年)、京都市清水寺所蔵

末吉 孫左衛門(すえよし まござえもん、元亀元年(1570年) - 元和3年3月26日1617年5月1日))は、江戸時代初期に朱印船貿易で活躍した大坂豪商。名は吉安(吉康)[1]。出家後は同円。

伏見銀座頭取である摂津国東成郡平野郷(現在の大阪市平野区)発祥の氏族・平野氏の平野勘兵衛利方(のちの末吉勘兵衛)の孫にあたる[1]。利方は千利休とも親しく交流があった。利方の長男が早世したため、利方の嗣子となった[1]。1607年(慶長12年)利方が死去すると、家督を継いだ[1]。1608年、伏見の銀座を京都市内に移し、大坂に出張所をおいた[1]。吉康が住んだ町は「末吉孫左衛門町」と呼ばれた[1]大坂冬の陣大坂夏の陣では徳川家康に与し[1]、陣の直後に旗本として身分を保証された[1]

1601年、朱印船制度が制定されると、1604年から1634年にかけて、吉康と長男の長方による「末吉船」が大坂から派遣された朱印船の半分以上を占めた[1]。同時期に朱印状を受けた商人としては、茶屋四郎次郎荒木宗太郎角倉了以らがいる[1]。「末吉船」はインドシナフィリピンなどの南洋方面に出かけて貿易を行った[1]

1617年、大坂で死去[1]。墓は高野山蓮花定院にある[1]

大正6年(1917年)、従五位を追贈された[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m なにわ大坂をつくった100人 第45回末吉孫左衛門吉康”. 公益財団法人関西・大阪21世紀協会. 2023年2月3日閲覧。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.43

関連項目




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「末吉孫左衛門」の関連用語

末吉孫左衛門のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



末吉孫左衛門のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの末吉孫左衛門 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS