黒船来航
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黒船来航(くろふねらいこう)は、嘉永6年(1853年)に代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事件。艦隊は江戸湾入り口の浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)沖に停泊し、一部は測量と称して江戸湾奥深くまで侵入した。結果、幕府はペリー一行の久里浜への上陸を認め、そこでアメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本ではおもに、この事件から大政奉還までを「幕末」と呼んでいる。
ペリー来航
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嘉永5年(1852年)11月、福岡藩・佐賀藩・薩摩藩は、幕府からペリー来航予告情報を内達される。福岡・佐賀は長崎警備の任にあり、薩摩は琉球王国を服属させていたことから、外交問題に関係が深かったためである。情報を受けた斉溥は同年12月、徳川幕府に対して建白書を提出した。それは幕府の無策を批判し、ジョン万次郎の登用や海軍の創設を求めるものであった。一大名が堂々と幕府批判を行うということは、前代未聞の行動であった。結局建白書は黙殺され、その主張が採用されることはなかったが、斉溥や藩家老の黒田増熊が処分を受けることもなかった。 嘉永6年(1853年)7月、ペリー艦隊の来航を受けた幕府の求めに応じ、再度建白書を提出した。この中で、蒸気船を主力とした海軍による海防の強化、通商を開き欧米から先進技術を導入すること、アメリカ・ロシアと同盟すればイギリス・フランスにも対抗し得ることなどを主張している。 安政6年(1859年)には、再来日したシーボルトによる解剖学の講義を受け、死体を直接手にとってもいる。 元治元年(1864年)、参議となり、筑前宰相と呼ばれる。
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