ペリー来航以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 20:27 UTC 版)
詳細は「幕末の砲艦外交」を参照 1791年(寛政3年) - 冒険商人ジョン・ケンドリックが2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。 1797年(寛政9年) - オランダがフランス革命戦争でフランスに占領されてしまったため、数隻のアメリカ船がオランダ国旗を掲げて出島での貿易を行う。1809年(文化6年)までに13回の来航が記録されている。 1830年(天保元年) - 小笠原諸島の父島にナサニエル・セイヴァリーが上陸。 1835年(天保6年) - 大統領アンドリュー・ジャクソンは、エドマンド・ロバーツ(Edmund Roberts)を特命使節とし、清・日本との交渉のためにアジアに派遣したが、ロバーツは中国で死亡した。ロバーツをアジアに送り届けるため、東インド艦隊が編成された。 1837年(天保8年) - アメリカ商人チャールズ・キングが商船モリソン号で音吉など漂流民を日本に送り届けるため浦賀に渡航。1808年に長崎でイギリス軍艦の起こしたフェートン号事件以降の異国船打払令に基づき、日本側砲台がモリソン号を砲撃した(モリソン号事件)。 1842年(天保13年) - アヘン戦争で清が敗れ、イギリスの強さを知った幕府は異国船打払令を廃止し、遭難船を救済する薪水給与令を定めた。 1844年(天保15年)7月29日、オランダ政府はオランダ国王の親書を軍艦で江戸幕府に届ける旨をあらかじめ商船船長のヒイトル・アオヘルト・ヒツキから江戸幕府に通知させたうえ、8月15日には軍艦長ハーエス・コープスがこれを届けた。親書は江戸幕府が鎖国を解くよう、またオランダ船やその船員、日本人に対する待遇を改善するよう求めたもので、美術品や地図、植物図鑑、天文学書などが付されていた。 1845年(弘化2年) - 捕鯨船マンハッタン号が、22人の日本人漂流民を救助し、船長マーケイター・クーパーは浦賀への入港を許可され浦賀奉行と対面した。 1846年(弘化3年)閏5月 - アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルがコロンバス号、ビンセンス号の2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港であった。 1846年(弘化3年) - アメリカ捕鯨船ローレンス号の乗員、択捉島に漂着。翌年長崎でオランダ船に引き渡される。 1848年(嘉永元年) - アメリカ捕鯨船ラゴダ号の乗員、西蝦夷地に漂着。ローレンス号の乗員と同じく長崎に護送されるが、脱走を試みるなどしたため、入牢させられる。これがアメリカには、「アメリカ人が虐待されている」と伝わる。 1848年(嘉永元年) - ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。 1849年(嘉永2年) - 東インド艦隊のジェームス・グリンを艦長とするアメリカ軍艦プレブル号が長崎に渡航し、前年に漂着したラゴダ号の船員とマクドナルドを受け取り退去する。このとき、グリンの示した「毅然たる態度」が、のちのペリーの計画に影響を与える。
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