ペリー退去後の幕府の動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 20:27 UTC 版)
「黒船来航」の記事における「ペリー退去後の幕府の動向」の解説
ペリー退去からわずか10日後の7月27日(嘉永6年6月22日)、将軍家慶が死去した。将軍後継者の家定(嘉永6年11月23日に第13代征夷大将軍に就任)は病弱で国政を担えるような人物ではなかった。しかし老中らにも名案はなく、国内は異国排斥を唱える攘夷論が高まっていたこともあって、老中首座の阿部は開国要求に頭を悩ませた。 8月5日(嘉永6年7月1日)、阿部は、広く各大名から旗本、さらには庶民に至るまで、幕政に加わらない人々にも外交についての意見を求めたが、これは開幕以来初めてであった。国政に発言権のなかった外様大名は喜んだが、名案はなかった。これ以降は国政を幕府単独ではなく合議制で決定しようという「公議輿論」の考えだけが広がり、結果として幕府の権威を下げることとなった。
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