ペルイレルの戦いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ペルイレルの戦いの意味・解説 

ペルイレルの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 07:59 UTC 版)

「海の民」記事における「ペルイレルの戦い」の解説

確実に海の民であるとはっきり特定できる最初言及は、メルエンプタハ(前1213年 - 前1204年)の時代石碑見える。メルエンプタハ5年(前1208年)の文書 では、古代リビュア人及び海の民連合軍侵略打ち克ち、6,000人の兵を殺し9,000人の捕虜得たと書かれている(ペルイレルの戦い、Battle of Perire)。 このときの海の民は、アカイワシャ人・トゥルシア人・ルッカ人・シェルデン人・シェケレシュ人の5つ集団から構成されていたことが記録されている。各集団は以下のように比定されている。 アカイワシャ人 - ホメロス伝えるところのアカイア人、すなわちミケーネ文明担い手であったギリシア人 トゥルシア人 - エトルリア人 ルッカ人 - 小アジア南西部リュキアシェルデン人 - サルデーニャ人 シェケレシュ人(Shekelesh) - シチリア人 なお、アカイア紀元前15世紀から紀元前13世紀ごろにはオリエント世界ではアヒヤワとして知られ勢力で、ルッカ人やシェルデン人は海の民出現先立つ紀元前1286年にはヒッタイトエジプト戦ったカデシュの戦いにおいて両陣営傭兵として活動していたことが記録されている。また、紀元前14世紀中葉アマルナ書簡ルッカ人の海賊シェルデン人の王について言及したものが知られる。 つまり、海の民として連合してエジプトなどを侵攻した海上勢力目新しいものであったが、その個々構成要素となる集団は、それ以前から地中海世界或いはオリエント世界では知られていた存在であった。彼らの大規模な移動侵略行為は、紀元前1400年ごろのミノア文明崩壊から紀元前1120年ごろのドーリス人ギリシア定着先住ギリシア人小アジアへの移住定着に至る、約300年間に及ぶ東地中海世界混乱過程ひとつとして引き起こされたものと考えられている。研究者には、トロイア戦争におけるギリシアアカイア)側の予言者モプソス活動海の民集団指導者結び付けて考えている者もいる。

※この「ペルイレルの戦い」の解説は、「海の民」の解説の一部です。
「ペルイレルの戦い」を含む「海の民」の記事については、「海の民」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ペルイレルの戦い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ペルイレルの戦い」の関連用語

ペルイレルの戦いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ペルイレルの戦いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの海の民 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS