「海の民」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 03:55 UTC 版)
治世第8年には更に深刻な「海の民」の侵入があった。ラムセス3世の葬祭殿に残された碑文によれば、既に彼らによってエジプトの同盟国ヒッタイトが滅ぼされ、シリアやキプロスも荒廃していたと言う。 異邦人達は彼らの島々で陰謀を企んだ。全く突然に諸国は戦いに敗れ去り潰走させられた。ケテ、コーデ(英語版)、カルケミシュ、アルザワ(英語版)、アラシア(英語版)を初めとして彼らの支配力の前に立ち得る国は無かった。突然焼け野原となってしまった。アムルの倉庫は破壊された。彼らはその地の民を滅ぼし、その地にはまるで国が存在しなかったようになってしまった。彼らは前へ大火災を広げつつ、エジプトへと向かってきた。彼らはペリシェト、チェケル、シェケレシュ、デニエン、ウェシェシュなど、一つにまとまりあった諸国の民からなっていた。… この記録の正確さについて議論はあるが、現実にこの時期の東地中海世界は激変を迎えていた。前1200年頃にはアナトリアの大国ヒッタイトの首都ハットゥシャが破壊されており、紀元前12世紀半ば頃までにはミュケナイ文明圏の主要な国もほとんどが滅亡した。カデシュ、ウガリト、アララハなどシリア地方の有力な都市も多数破壊に見舞われ、その後二度と復興しなかった。この全てが実際に「海の民」によるものかどうかはわからない。しかし、こうした動乱がエジプトにも及んだのがラムセス3世の治世第8年に起きた「海の民」の侵入であった。 「海の民」側は陸海からエジプトに侵入したが、ラムセス3世はアジア駐屯軍を集め、ペルシウムに軍船の壁を作ってこれと相対した。激しい戦闘の後「海の民」に対し陸海ともに勝利を収めてエジプトはその脅威から逃れた。敗れた「海の民」の多数は捕虜となり、エジプトの傭兵となると言う条件でエジプト領内に軍事植民地を与えられた。中でもシリアの遊牧民(ベドウィン)に対抗するために南部パレスチナに居住を認められたペリシテ人は、その後パレスチナの支配権をめぐってヘブライ人と長い戦いを行うことになることで有名である。パレスチナと言う地名もまた、彼らペリシテ人に由来する。 ラムセス3世の治世第11年には、再び西方から古代リビュアのメシェウェシュ族が侵入した。しかしラムセス3世はこれをも撃退することに成功した。リビュア人らも一部は傭兵としてエジプト国内の軍事植民地に配置されたが、この処置は後のエジプトの歴史に少なからず影響を与えることになる。こうして相次ぐ侵入者を排し、東地中海世界の多くの国が滅亡する中でエジプトは無事存続したのである。
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