エジプト第20王朝
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エジプト第20王朝(エジプトだい20おうちょう、紀元前1185年頃 - 紀元前1070年頃)は、新王国時代の古代エジプト王朝。新王国の繁栄が終わりを告げ、古代エジプトが衰退し始める時代を統治した王朝である。ほとんどの王がラムセスと言う名を持っていることからラムセス王朝と呼ばれることもある。
- ^ 海の民とのデルタの戦い)はカルナック神殿のen:Great Karnak Inscriptionに記されている。
- ^ ハッティ、即ちヒッタイトの事。
- ^ キズワトナのこと。アナトリア半島南東部。
- ^ ユーフラテス川西岸にある都市。この文章では広くシリア地方全域を指しているとも言われる。カルケミシュの遺跡で発見されている実際の破壊の痕跡については、「海の民」のものではなくエジプトやヒッタイトが弱体化した結果、自立勢力となったシリア地方の諸国による相互の争いの結果とする意見もある。参考文献『古代シリアの歴史と文化 東西文化のかけ橋』参照
- ^ アナトリア半島南西部。
- ^ キプロス島。
- ^ ペリシェトは名称の類似から一般にペリシテ人に比定されている。
- ^ 詳細不明。一説にはトロイのテウケロスと関係があるとも言われるが、証拠に乏しい。
- ^ ハットゥシャの破壊がこの時期であるのは考古学的に確認された事実である。しかしなお「海の民」による破壊と言うエジプトの記録が確実であるかどうかには慎重な意見が多い。
- ^ ナイル川三角州の最東部の地。シリアからエジプトに入る経路上の要衝であり、たびたび戦地となった。
- ^ ペリシテ人の居住した地域は、ギリシア人によってフィリスティア(Philistia)と呼ばれた。
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
- ^ 参考文献『世界の歴史1 人類の期限と古代オリエント』の記述に基づく。
- ^ 古代エジプト民衆暦では、一年は3つの季節(増水季、冬、夏)に分けられていた。1つの季節は4ヶ月からなり、1ヶ月の長さは30日である。他に付加日と呼ばれる特別日が5日設けられ、一年は合計で365日であった。しかし、実際の地球の1回帰年が平均365.2422日であるため、4年間の間におおよそ1日分のズレが生じることになり、約730年間(地球の歳差運動その他の要素によって実際には730年丁度ではない。)の間に季節が反転してしまうものであった。このため暦の上では「冬」とあっても必ずしも実際の季節が「冬」であるとは限らない。
- ^ ただし、ウェンアメンは後述するアメン大司祭国のヘリホルによって派遣された使者であったため、名目的には未だ第20王朝に臣従していたザカルバールとしては冷たく応対したのだという解釈もなしうる。参考文献「ウェンアメン旅行記」『筑摩世界文学大系1 古代オリエント』参照。
- ^ 「誕生の更新」の意。通常は「再生」と翻訳される。上述のウェンアメンがビュブロスに派遣された年として「再生5年」と記されている。
- ^ ネスーバネブジェドこそはマネトが記録するスメンデスであると考えられる。
- ^ エジプト第3中間期という分類を用いない学者もいる。
- ^ 参考文献『ファラオ歴代誌』ではラムセス7世、8世に全く同じ治世年が割り当てられている。参考文献『考古学から見た古代オリエント史』の記述ではラムセス7世は前1135年 - 前1129年。ラムセス8世は前1129年 - 前1127年である。
- 1 エジプト第20王朝とは
- 2 エジプト第20王朝の概要
- 3 歴史
- 4 歴代王
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