エジプト第17王朝
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エジプト第17王朝(エジプトだい17おうちょう、紀元前1663年頃 - 紀元前1570年または紀元前1580年頃 - 紀元前1550年頃)は、第2中間期時代の古代エジプト王朝。いわゆるヒクソス(ヘカ・カスウト 異国の支配者達の意)が下エジプト(ナイル川三角州地帯)に第15王朝を建てて支配権を握っていた時代に、テーベ(古代エジプト語:ネウト、現在のルクソール[注釈 1])を中心とした上エジプト(ナイル川上流)で支配権を持った。当初は第15王朝の権威に対し臣従していたが、やがて異民族追放を大義名分として第15王朝と戦いこれを滅ぼしてエジプトを統一した。これを以って第2中間期の終焉、新王国時代の始まりとされる。また慣習的にエジプト統一を成し遂げたイアフメス1世からは第18王朝とされているが、第17王朝と第18王朝は完全に連続した政権である。
注釈
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家マネトの記録ではディオスポリスマグナと呼ばれている。これはゼウスの大都市の意であり、この都市がネウト・アメン(アメンの都市)と呼ばれたことに対応したものである。この都市は古くはヌエと呼ばれ、旧約聖書ではノと呼ばれている。ヌエとは大都市の意である。新王国時代にはワス、ワセト、ウェセ(権杖)とも呼ばれた。
- ^ 紀元前3世紀のエジプトの歴史家。彼はエジプト人であったが、ギリシア系王朝プトレマイオス朝に仕えたためギリシア語で著作を行った。
- ^ カーメスの軍功については、1954年に発見された彼の戦勝記念碑によって知られている。この記念碑はカーメス王がテーベのカルナック神殿に奉納したものであり、当時の政治状況を知ることのできる数少ない文書の1つである。この種の文献の常としてカーメス自身の軍功や、正当性には誇張があると考えられている。当然のように彼は解放者として描かれているが、第15王朝の支配下にあったエジプト人達が当時の時点でそのような捉え方をしたかは疑わしい。
- ^ 王であるイアフメス1世とは同名の別人である。
出典
- ^ 参考文献「ヒュクソスのエジプト支配」『西洋古代史論集1』の記述による。
- 1 エジプト第17王朝とは
- 2 エジプト第17王朝の概要
- 3 歴史
- 4 歴代王
- 5 脚注
- エジプト第17王朝のページへのリンク