エジプト統一とは? わかりやすく解説

エジプト統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 04:00 UTC 版)

エジプト第11王朝」の記事における「エジプト統一」の解説

アンテフ3世治世挟み紀元前2060年頃にメンチュヘテプ2世即位したメンチュヘテプ2世エジプト再統一することになる王である。 メンチュヘテプ2世治世14年目に第11王朝支配下にあった上エジプト第8県(アビュドス)で反乱発生した。この重要な聖地を巡る反乱契機両国の間に再び戦端開かれたメンチュヘテプ2世は、迅速に反乱鎮圧することに成功し第8県を回復、更に第10王朝への反撃続け北進繰り返し概ね戦況優勢のまま推移した。この戦況見て第10王朝の下にあった上エジプト15県のヘルモポリス侯等が第11王朝の側に寝返ったために状況決定的なものとなった。そして治世21年目(紀元前2040)頃に第10王朝本拠地ヘラクレオポリス陥落させる事に成功した。更に治世39年頃にメリカラー王の後継者最終的な滅亡前にメリカラーは死去しており、第10王朝最後の王の名は知られていない)との闘い最終的な勝利を収めエジプトを完全に統一することに成功したこれをもってエジプト第1中間期終焉中王国時代始まりとされる 彼の軍事的成功次々と変更され彼のホルス名からもうかがい知ることができる。彼は即位した後、スアンクイブタウィ(両国の心を生かす者、治世14年まではこれを使用していた。)その後、ネチェルヘジェト(白色王冠の主)というホルス名付けた。これは上エジプトにおける彼の統治うまくいっていた事を示すものであろう最後に治世39年ホルス名はスマタウィ(両国統合者)となったメンチュヘテプ2世統一後精力的に統治あたった上エジプト長官など古王国以来官職復活させるとともに新たに下エジプト長官を置くなどして行政機構整備していった。敵対的な州侯廃されメンチュヘテプ2世の息のかかった人物がそれに変わった。ただし、第10王朝との戦いで重要な役割果たしたヘルモポリス侯など、旧第10王朝第11王朝国境地帯州侯に対してこのような強硬策に出ることはできなかったようである。軍事面ではエジプトの外へと活動範囲広げた南方への遠征では第二瀑布までの下ヌビア地方にまで到達してこれを支配下におさめ、更に南方プント国現在のソマリア地方)へ隊商送った西方砂漠地帯にも軍事遠征が行われ、オアシス勢力持ったリビア人を支配下収めたこうした成功によって各地採石場から良質な建材手に入るようになったことで再び大規模建築が可能となったテーベに昔から仕えていた職人加えてヘラクレオポリス宮廷仕えていた職人達もテーベ移されメンチュヘテプ2世の下で優れた芸術作品生み出したメンチュヘテプ2世時代建造物として最も有名なものはテーベの西に建造され葬祭殿である。現在デイル・アル=ハバリよばれる断崖囲まれ窪地にそれは建設されメンチュヘテプ2世仕えた寵臣達もその周囲葬られた。例え宰相ケティ(アクトイ)、大臣ダギ大臣アピ侍従長ネヌなどの墓がメンチュヘテプ2世王墓周辺造営されている。ダギの墓からはコフィン・テキスト呼ばれる呪文発見されており、古王国時代ピラミッド・テキストとの類似指摘されている。

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エジプト統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:35 UTC 版)

エジプト第18王朝」の記事における「エジプト統一」の解説

第2中間期テーベ中心に支配権持っていた第17王朝は、下エジプトナイル川三角州地帯東部拠点とした第15王朝ヒクソス)の覇権の下にあった。やがてセケンエンラー王の時代に対ヒクソス軍事行動開始し息子カーメスイアフメス1世三代にわたる戦いの結果、第15王朝根拠地アヴァリス制圧して全エジプト統一した。このエジプト統一という事件を重要視しマネトイアフメス1世以降の王を第18王朝としており、現代学者達の区分もこれに従っている。 ヒクソスや、彼らに関係した戦いについては、ヒクソスエジプト第15王朝エジプト第17王朝参照 イアフメス1世ヒクソス勢力にとどめを指すべく、ヒクソスパレスチナ地域における拠点であったシャルヘンを攻略するためのパレスチナ遠征治世11年から開始した3年にもわたる包囲戦の末シャルヘンを陥落させ、ここにヒクソス勢力は完全に放逐されるに至った。そしてヒクソス(第15王朝)のアペピ王の娘ヘルタを妃として迎え、これによってヒクソスシリア地方持っていた統治権継承した主張した。こうしてパレスチナ地域の支配確立した後、イアフメス1世矛先ヒクソス同盟国であったヌビアに向け、ナイル川第二瀑布付近までを征服した以後ヌビアは、「南の異国王子」という称号を持つ総督によってエジプト直接支配の下に置かれることになる。こうして南北国境固めた後、イアフメス1世中央集権確立すべく内政充実に力を注ぎ官職売買などを禁止して人事権掌握努めた

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