エジプト統一
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アンテフ3世の治世を挟み、紀元前2060年頃にメンチュヘテプ2世が即位した。メンチュヘテプ2世はエジプトを再統一することになる王である。 メンチュヘテプ2世の治世14年目に第11王朝の支配下にあった上エジプト第8県(アビュドス)で反乱が発生した。この重要な聖地を巡る反乱を契機に両国の間に再び戦端が開かれた。メンチュヘテプ2世は、迅速に反乱を鎮圧することに成功し第8県を回復、更に第10王朝への反撃を続け北進を繰り返し、概ね戦況は優勢のまま推移した。この戦況を見て第10王朝の下にあった上エジプト第15県のヘルモポリス侯等が第11王朝の側に寝返ったために状況は決定的なものとなった。そして治世21年目(紀元前2040)頃に第10王朝の本拠地ヘラクレオポリスを陥落させる事に成功した。更に治世第39年頃にメリカラー王の後継者(最終的な滅亡の前にメリカラーは死去しており、第10王朝最後の王の名は知られていない)との闘いに最終的な勝利を収め、エジプトを完全に統一することに成功した。これをもってエジプト第1中間期の終焉、中王国時代の始まりとされる 彼の軍事的成功は次々と変更された彼のホルス名からもうかがい知ることができる。彼は即位した後、スアンクイブタウィ(両国の心を生かす者、治世第14年まではこれを使用していた。)その後、ネチェルヘジェト(白色王冠の主)というホルス名を付けた。これは上エジプトにおける彼の統治がうまくいっていた事を示すものであろう。最後に治世第39年にホルス名はスマタウィ(両国の統合者)となった。 メンチュヘテプ2世は統一後も精力的に統治にあたった。上エジプト長官など古王国以来の官職を復活させるとともに、新たに下エジプト長官を置くなどして行政機構を整備していった。敵対的な州侯は廃され、メンチュヘテプ2世の息のかかった人物がそれに変わった。ただし、第10王朝との戦いで重要な役割を果たしたヘルモポリス侯など、旧第10王朝と第11王朝の国境地帯の州侯に対してはこのような強硬策に出ることはできなかったようである。軍事面ではエジプトの外へと活動の範囲を広げた。南方への遠征では第二瀑布までの下ヌビア地方にまで到達してこれを支配下におさめ、更に南方やプント国(現在のソマリア地方)へ隊商を送った。西方の砂漠地帯にも軍事遠征が行われ、オアシスに勢力を持ったリビア人を支配下に収めた。 こうした成功によって各地の採石場から良質な建材が手に入るようになったことで再び大規模建築が可能となった。テーベに昔から仕えていた職人に加えてヘラクレオポリスの宮廷に仕えていた職人達もテーベに移され、メンチュヘテプ2世の下で優れた芸術作品を生み出した。メンチュヘテプ2世時代の建造物として最も有名なものはテーベの西に建造された葬祭殿である。現在デイル・アル=ハバリとよばれる断崖に囲まれた窪地にそれは建設され、メンチュヘテプ2世に仕えた寵臣達もその周囲に葬られた。例えば宰相ケティ(アクトイ)、大臣ダギ、大臣アピ、侍従長ネヌなどの墓がメンチュヘテプ2世の王墓周辺に造営されている。ダギの墓からはコフィン・テキストと呼ばれる呪文が発見されており、古王国時代のピラミッド・テキストとの類似が指摘されている。
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エジプト統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:35 UTC 版)
第2中間期にテーベを中心に支配権を持っていた第17王朝は、下エジプト(ナイル川三角州地帯)東部を拠点とした第15王朝(ヒクソス)の覇権の下にあった。やがてセケンエンラー王の時代に対ヒクソスの軍事行動を開始し、息子のカーメス、イアフメス1世と三代にわたる戦いの結果、第15王朝の根拠地アヴァリスを制圧して全エジプトを統一した。このエジプト統一という事件を重要視し、マネトはイアフメス1世以降の王を第18王朝としており、現代の学者達の区分もこれに従っている。 ヒクソスや、彼らに関係した戦いについては、ヒクソス、エジプト第15王朝、エジプト第17王朝を参照 イアフメス1世はヒクソス勢力にとどめを指すべく、ヒクソスのパレスチナ地域における拠点であったシャルヘンを攻略するためのパレスチナ遠征を治世第11年から開始した。3年にもわたる包囲戦の末シャルヘンを陥落させ、ここにヒクソス勢力は完全に放逐されるに至った。そしてヒクソス(第15王朝)のアペピ王の娘ヘルタを妃として迎え、これによってヒクソスがシリア地方に持っていた統治権を継承したと主張した。こうしてパレスチナ地域の支配権を確立した後、イアフメス1世は矛先をヒクソスの同盟国であったヌビアに向け、ナイル川第二瀑布付近までを征服した。以後ヌビアは、「南の異国の王子」という称号を持つ総督によってエジプトの直接支配の下に置かれることになる。こうして南北で国境を固めた後、イアフメス1世は中央集権を確立すべく内政の充実に力を注ぎ、官職の売買などを禁止して人事権の掌握に努めた。
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