エジプト古王国
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エジプト古王国(エジプトこおうこく 紀元前2686年頃 - 紀元前2185年前後)は、古代エジプト史における時代区分。通常エジプト第3王朝からエジプト第6王朝までの時代を古王国と呼ぶ。なお、この区分は現代エジプト学による区分であり、古代エジプト人自身が初期王朝時代と古王国を区別していたわけではない。初期王朝時代の最後の王カセケムイは古王国の最初の王達と血縁関係を持つのみならず、首都や国家機構も含め、古王国は初期王朝時代の継続である。
注釈
出典
- ^ 『歴史』巻2 §124-§135(松平訳 1971, pp.240-248)
- ^ 畑守 1998, p.215,
- ^ 『筑摩世界文学大系1 古代オリエント集』 pp.416-424
- ^ 屋形ら 1998
- ^ 畑守 1998, pp.227^228,
- ^ 屋形ら 1998, p.412
- ^ フィネガン 1983, pp.255-258
- ^ 古谷野 2003, p.260
- ^ 畑守 1998, p.216
- ^ 畑守 1998, pp.216-217
- ^ 畑守 1998, 217p
- ^ 畑守 1998, 224p
- ^ 吉村氏の階段ピラミッドと真正ピラミッドに対する見解は、参考文献『吉村作治の古代エジプト講義録 上』を参照。
- ^ 近藤 1997, p.95
- 1 エジプト古王国とは
- 2 エジプト古王国の概要
- 3 概略
- 4 王朝の交代
- 5 脚注
- 6 関連項目
古王国
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「メンフィス (エジプト)」の記事における「古王国」の解説
古王国時代のメンフィスについては僅かにしか知られていない。この都市は神の如きファラオの王国の首都であり、ファラオ達は第1王朝の時からメンフィスで国家を統治した。ただしマネトの記録に従うならばメネス王の治世初期には玉座はより南のティニス(英語版)にあった。 マネトによれば、古代の記録では「白い壁」(イネブ・ヘジ)はメネスによって建設された。いくつかの文書では「白い壁の要塞」と呼ばれている。王は恐らく2つの対立していた王国から生まれた新たな統一王国をうまく統治するためにこの地を選んだのであろう。第3王朝のジェセル王のピラミッド複合体は古代のネクロポリスであるサッカラにある。この王家の葬祭殿は、王室に必要なあらゆる施設(神殿、社、法廷、王宮と兵舎)を備えていた。 その黄金時代は第4王朝と共に始まった。第4王朝ではメンフィスの王都としての主たる役割はさらに強まったと思われ、ファラオ達はこの都市で上下エジプト統一の神聖な象徴である上下エジプト王冠を授けられた。戴冠式やセド祭(英語版)のような祝祭はプタハ神殿で挙行された。このようなセレモニーの最も初期の痕跡はジェセル王の間で見つかっている。 またこの時代にはプタハ神殿の神官達の影響力も拡大した。神殿の重要性はこの時代の王侯貴族の葬儀に必要な食料やその他の物資の提供によって証明されている。この神殿はパレルモ石に記録された年代記の中でも言及されており、メンカウラー王の治世から少なくてもテティ王の治世まで、2人1組で職務に当たっていたと思われるメンフィスの大司祭(英語版)の名前が判明している。 この時代の建造物は第4王朝の王家のネクロポリスであるギーザで見られるものと類似しており、この地での最近の発掘で、当時の王国にとって主要な関心は王墓の建設にあったことが明らかになっている。この見解を強力に後押しするのが、第6王朝の王ペピ1世のピラミッド(英語版)と一致するこの都市の名前の語源である。メンフィスは先行する時代の記念碑を多数備え、長きにわたってその芸術的、建築的な慣行を継承した。 これらのネクロポリスは全て、王墓建設専門の職人や労働者が居住するキャンプに囲まれていた。メンフィスはあらゆる方向に数キロメートルにわたって広がり、テメノス(聖域)で結ばれた神殿と、道路と運河によって結ばれた港と共にメガロポリスを形成していた。都市の外周は徐々に広がって広大な都市が形成された。その中心はプタハ神殿複合体の周辺であった。
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古王国
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クフ王の葬祭儀式(mortuary cult)は古王国の間続けられていた。第6王朝が終わる時点までに、少なくても67人の葬儀司祭とネクロポリスで働く6人の独立した役人が死者の魂に仕えていた事が考古学的に証明されている。彼等のうちの10人は既に第4王朝末期に勤務していた(うち7人は王族であった)。28人は第5王朝の間に、29人は第6王朝の間に勤務していた。これはクフの葬祭儀式の際立った特徴である。クフの有名な(継)父スネフェルは同じ期間に18人の司祭から礼拝を受けた。同様にジェドエフラーは8人のみ、カフラーは28人である。このような葬祭儀式は国家経済にとって極めて重要であった。なぜならばこの葬儀のために特別な領地が設けられていたからである。だが、第6王朝の終焉までにこのような領地の数は急激に減った。第7王朝の始まりと共に領地の名前はもはや伝わらなくなった。
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古王国
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ヒッタイト王国を建国したのは、ハットゥシャの南北の地域を征服したラバルナ1世あるいはハットゥシリ1世のいずれかとされている(これらが同一人物ではないかとする論争もある)。ハットゥシリ1世はシリアのヤムハドまで遠征して攻撃したが、その首都であるアレッポを攻め落とす事は出来なかった。彼の後継者であるムルシリ1世は、紀元前1595年の戦役でアレッポを征服した。また紀元前1595年にムルシリ1世はユーフラテス川を下って大襲撃を行い、マリとバビロンを陥落させた 。しかしながら、ヒッタイトの外征は国内の紛争により中止され、軍はヒッタイト本国へ引き揚げた。それ以降の紀元前16世紀の間を通じて、ヒッタイトの王たちは王家の争い、そして東に隣接するフルリ人との戦争により本国に止まらざるを得なかった。またシリアとメソポタミアへの遠征により、アナトリアに楔形文字による筆記が再び取り入れられたものとみられる。なぜなら、ヒッタイト文字は先行するアッシリア人の入植地時代の文字とは明らかに異なっているからである。 ムルシリはハットゥシリ1世の外征を継続した。ムルシリの外征はメソポタミアに達し、紀元前1531年にはバビロンを略奪しさえもした。しかしムルシリは、バビロニアをヒッタイトの支配下に組み込むというよりは、むしろバビロニアを同盟国のカッシートに引き渡したようで、その後カッシートが4世紀にわたってバビロンを支配する事になる。しかしながら、この長きにわたる戦役はハッティの資源を浪費し、首都は無政府状態のまま放置された。ムルシリは帰国後すぐに暗殺され、ヒッタイト王国は混乱状態に陥った。チグリス川とユーフラテス川の上流部の山地に住むフルリ人は、この状況を利してアレッポとその周辺地域を掌握し、さらにアダニヤ(Adaniya)の沿岸地域を獲得してキズワトナ(英語版)(後のキリキア)と改称した。 この後、ヒッタイトは弱小期に入り文献記録も途絶え、傑出した君主もなく、その支配領域も縮小した。強い王の下での拡張と、弱い王の下での縮小というこのパターンがヒッタイト王国の500年の歴史を通じて何度も何度も繰り返された。このため衰弱期の事象の歴史を正確に組み立てる事は難しい。この頃のヒッタイト古王国の政情不安定の一因は、その頃のヒッタイトの王権のあり方により説明できる。紀元前1400年以前のヒッタイト古王国では、ヒッタイト王はヒッタイト市民からエジプトのファラオのような「生き神様」と見なされていたのではなく、むしろ平等市民の中の第一位の者と見なされていた。 ムルシリ1世から数代を経た君主がテリピヌ(紀元前1500年ごろ)である。彼は南西方面でフルリ人の国の一つであるキズワトナ(英語版)と同盟して、別のフルリ人の国(ミタンニ)に対して何度か勝利したようである。
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