エジプト・シリア戦役
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エジプト・シリア戦役(エジプト・シリアせんえき、仏: Campagne d'Égypte et de Syrie)は、1798年から1801年まで、フランス軍がエジプト・シリアへ遠征した戦役である。単にエジプト遠征(仏: Expédition d'Égypte)ともいう。 ナポレオン・ボナパルト率いる5万人のフランス軍が、マルタ島を経由して、エジプトのアレクサンドリア近郊に上陸した。途中ナポレオンは帰還するも、延べ約3年間に渡って、地元のマムルーク軍や諸勢力、イギリス軍、そして後に宣戦してきたエジプト・シリアを間接支配するオスマン帝国の正規軍と戦った。
- 1 エジプト・シリア戦役とは
- 2 エジプト・シリア戦役の概要
- 3 学術的貢献
エジプト・シリア戦役
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「イギリスの歴史」の記事における「エジプト・シリア戦役」の解説
こうした状況の大きな転換点となるのがナポレオン・ボナパルトの登場である。ナポレオンの登場は大陸のミリタリー・バランスを大きく崩し、第一次イタリア遠征を終えオーストリア帝国を打ち破ると、当時のフランス総裁政府も軍事上の次の軍事的脅威をイギリスと捉え、ナポレオンを対英方面司令官に任命した。といっても当時のフランスにとってドーバー海峡を渡ってイギリスに直接侵攻するということは非現実的な議論であり、この職への就任は事実上の左遷であった。しかしイギリスの脅威に対抗することも又必要であったため、ナポレオンはイギリスと、イギリスの植民地であったインドの連絡を絶ち、イギリスを経済的に疲弊させることを目的としてエジプト遠征を決意した。これがイギリスにとってのナポレオンとのはじめての直接対決であり、以降17年間続くナポレオン戦争の実質的な幕開けであった。 1798年、ナポレオンはエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いでカイロを陥落させると、シリア方面に転じヤッファ、アレクサンドリアでイギリス陸軍を打ち負かした。しかしアッカの戦いでイギリス・オスマン連合軍に敗れ、次いでナイルの海戦で補給を担当するフランス艦隊が、ホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に大敗、遠征の維持に補給の不安を抱えたため、当初の目的であるイギリスとインドの遮断は達成できなかった。一方大陸においてフランス軍が劣勢に立たされ、総裁政府への支持が急落したため、ナポレオンは遠征を中止してフランスへ帰国した。
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