エジプト・シリア戦役、カイロ暴動を経てエジプト総督に就任
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「ムハンマド・アリー」の記事における「エジプト・シリア戦役、カイロ暴動を経てエジプト総督に就任」の解説
1798年、イギリスとの間でエジプト経由の交易路を巡る外交戦を展開していたフランスが、自国商人の保護を理由にエジプトへの侵攻を開始した(エジプト・シリア戦役)。エジプトの宗主国であるオスマン帝国はこれに対抗するべく、カヴァラ市に対しアルバニア人非正規部隊300人の派遣を命じた。この部隊の副隊長として戦功を挙げたムハンマド・アリーは、6000人からなるアルバニア人非正規部隊全体の副司令官へと昇進した。 遡ってフランス軍の侵入以前、18世紀エジプトではマムルークたちがエジプト総督(ワーリー)を差し置いて政治の実権を掌握し、オスマン帝国からの独立を宣言するマムルークも現れていた。18世紀後半にはマムルークの派閥抗争に支配権回復を図るオスマン帝国の巻き返しが絡む権力闘争が展開され、エジプトの政治情勢は混迷を極めた。イギリス軍がフランス軍を破り、さらに両国の間に講和条約(アミアンの和約)が結ばれイギリス軍がエジプトから撤退(1803年3月)した後のエジプトでは、オスマン帝国の総督および正規軍、アルバニア人非正規部隊、親英派マムルーク、反英派マムルークが熾烈な権力闘争を繰り広げた(カイロ暴動)。カイロ暴動の最中の1803年5月、アルバニア人非正規部隊の司令官ターヘル・パシャが暗殺され、ムハンマド・アリーが後任の司令官に就任した。これをきっかけに、ムハンマド・アリーはエジプトにおける権力闘争に割って入った。ムハンマド・アリーはまず、マムルークと協力してオスマン帝国が任命した総督を無力化し、次にマムルーク内の派閥抗争を利用しつつカイロ周辺からマムルーク勢力を排除した。さらに自らがエジプト総督に推したアフマド・フルシド・パシャと対立すると総督に対するカイロ市民の不満を巧みに自身への支持に絡げ、1805年5月にはウラマー(宗教指導者)たちから新総督への推挙を受けることに成功した。ムハンマド・アリーが市民の支持を背景に新総督への就任を宣言すると、オスマン帝国政府もこれを追認せざるを得なくなった。ムハンマド・アリーが数年のうちにアルバニア人非正規部隊の司令官からエジプト総督まで登りつめた過程について、フランスの総領事ベルナルディーノ・ドロヴェティー(英語版)は次のように評した。 構想力あるアルバニア人指導者の措置は、戦闘をせず、スルタンを個人的に怒らせないで、カイロのパシャとなることを狙っていたように私にはみえた。あらゆる行動はマキャヴェリ的精神を顕している。私は実際かれらがあらゆるトルコ人より強い頭脳をもっていると考えた。かれはシャイフ達や民衆の支持によって権力をえ、かれが入手できる地位をスルタン政府も進んで認めざるをえないようにしようと狙っている、と思えた。 — (岩永 1984, p. 43) 加藤博は、ムハンマド・アリーのエジプト総督就任をもって独立王朝ムハンマド・アリー朝が誕生したとしている。
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