エジプト・クーデター
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「アドリー・マンスール」の記事における「エジプト・クーデター」の解説
詳細は「2013年エジプトクーデター」を参照 2013年、ムルシー大統領の退陣を要求するデモが続く中、7月1日に軍はムルシーに対して48時間以内に譲歩を行い事態を収拾するよう求め、大統領府は、各政治勢力が参加する暫定政権設置と選挙実施を提案したが、7月3日にアブドルファッターフ・アッ=シーシー国防大臣が国営放送でテレビ演説を行い、憲法の停止とムルシーの権限剥奪を発表。暫定政権へ移行することとなり、暫定大統領として一時はモハメド・エルバラダイなどの名前も挙がったが、2日前に最高憲法裁判所長官に就任したばかりのマンスールが就くことが発表された。 マンスールは7月4日に最高憲法裁判所で就任宣誓を行い、共和制の維持、国民の利益を守ることなどを演説で表明した。 7月8日、2013年中に新しい憲法を制定し、議会選挙と大統領選挙を2014年に行うことを、大統領令を通じて発表した。9日には副大統領にモハメド・エルバラダイ、首相に2011年革命後の軍統治時代に副首相、財務大臣を務めたハーゼム・エル=ベブラーウィーを指名した。 8月13日、新たに18人の県知事を任命した。ただ、そのうちの13人が軍や治安機関出身者であることから、批判が出ている。
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エジプト・クーデター
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「ムハンマド・ムルシー」の記事における「エジプト・クーデター」の解説
詳細は「2012年-13年エジプト抗議運動(英語版)」および「2013年エジプトクーデター」を参照 内政外政におけるさまざまな失政を受けて政権批判や、反政権デモが展開されたのに対し、エジプト政府は活動家やジャーナリストを、扇動容疑で逮捕し、2013年5月に国境なき記者団から、報道の自由の破壊者に指定された。そして、6月には大統領への国民の支持率が25パーセントまで低下する事態となった。国防大臣のアブドルファッターフ・アッ=シーシーから「もはや、あなたは大統領でない」 と諌められたが、それに対して「おまえを解任してやる」 と反発するなど、軍部とも対立することになり政情不安が深刻化した。2013年7月3日、軍部によるクーデターにより解任され、拘束された。アメリカは政変の進展次第では軍事支援を中止するとしつつも、現時点ではクーデターと呼称する事を避けている。米国は国内法で、クーデターにより権力を奪取した政権には軍事援助しないと決めている。エジプトへの軍事援助を継続するためには、クーデターとは認められないのである。 サウジアラビアのアブドゥッラー・ビン・アブドゥルアズィーズ国王は軍事介入を高く評価し、アブドルファッターフ・アッ=シーシー国防大臣を「暗いトンネルからエジプトを救い出した」と称賛した。サウジアラビア、クウェート、アラブ首長国連邦は、エジプト軍に年額120億ドルの支援を行い、米国も13億ドルに及ぶ軍への支援を行った。湾岸諸国でもカタールは同胞団を支援してきたが、サウジやUAEなどは同胞団伸張の自国に対する影響を警戒している。 権力を掌握したシーシーは、2014年6月3日、自ら大統領となった。また、ムスリム同胞団を「テロ組織」「テロリスト同胞団」と呼び弾圧し、自由と公正党を解散させ、資産を没収した。 2015年4月21日、首都カイロの刑事裁判所は、2012年の反政権デモ隊への「殺害を扇動した罪」の被疑で、ムルシーに禁錮20年の判決を言い渡した。さらに5月16日、刑事裁判所は、2011年の反政府デモに際し、支持者らに刑務所を襲撃して囚人を脱獄させた被疑で、ムルシーおよびムスリム同胞団幹部・支持者ら105人(あわせて106人)を「死刑に値する」と表明した。エジプトでは、死刑判決は大ムフティー(最高イスラム法官)の意見を聞く必要があるため、この段階では判決ではない(ただし、裁判官は大ムフティーの意見に従う必要はない)。正式判決は、6月2日を予定していたが、6月2日になって、判決を6月16日に延期すると発表した。 6月16日、刑事裁判所は脱獄幇助の被疑について、正式に死刑判決を下した。さらに、この死刑とは別に、パレスチナ自治区のハマースやレバノンのヒズボラ、そしてイラン政府のためにスパイ活動を行った被疑でも終身刑となった。ムルシーは無罪を主張し、上訴する構えである。この他、ムスリム同胞団幹部5人についても死刑判決が下された。その後、2016年11月15日には破棄院(最高裁に相当)が脱獄幇助と警察署襲撃事件に対する死刑判決を覆し再審を命じている。 2019年6月17日、裁判での審理中に体調を崩し、カイロの病院に搬送されたがその日のうちに死去した。
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