イエナ・アウエルシュタットの戦い
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イエナ・アウエルシュタットの戦い(ドイツ語:Schlacht bei Jena und Auerstedt)は、ナポレオン戦争中の1806年10月14日、ドイツのテューリンゲン、イエナおよびアウエルシュタットで行われた戦闘である。ナポレオン1世率いるフランス帝国軍と、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世率いるプロイセン王国軍が交戦した。
- 1 イエナ・アウエルシュタットの戦いとは
- 2 イエナ・アウエルシュタットの戦いの概要
- 3 会戦に至る機動
- 4 イエナの戦い
- 5 アウエルシュタットの戦い
- 6 結果と影響
- 7 戦後
- 8 参考文献
イエナ・アウエルシュタットの戦い
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「第四次対仏大同盟」の記事における「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の解説
詳細は「イエナ・アウエルシュタットの戦い」を参照 プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、国力の差もあり、フランスとの開戦に必ずしも賛成ではなかったが、王妃ルイーゼ、プロイセン王子ルイ・フェルディナントといった反ナポレオンの急先鋒はさかんに王を焚き付け、ついに開戦の決意を固めさせる。 プロイセンは軍の動員を開始したものの、作戦計画や指揮権の所在が明確でなかったため、動員は遅々として進まなかった。1806年9月26日、プロイセンはフランス軍のドイツからの撤退を要求する最後通牒を突きつけたが、これは前日の9月25日にナポレオンがパリを発した後だった。こうしたプロイセン軍の初動の遅れは、フランス軍に態勢を整える時間を与えてしまう。 10月9日、プロイセン軍はフランスへ宣戦布告し、15万の兵力をもってテューリンゲンへ侵攻した。ナポレオンは直ちに20万の兵力をもってバイエルンからザクセン方面へ向けて進撃。10月10日、ザールフェルトの戦い(英語版)でランヌ軍団がプロイセン軍先鋒のルイ・フェルディナント親王を戦死させた。 プロイセン軍本隊も、10月14日のイエナ・アウエルシュタットの戦いで壊滅的打撃を受けた。イエナ方面ではナポレオン率いるフランス軍主力がプロイセン軍の後衛部隊を撃破。アウエルシュタット方面ではフリードリヒ・ヴィルヘルム3世とブラウンシュヴァイク公に率いられたプロイセン軍主力が、2倍の兵力をもってダヴー軍団に攻撃をかけるが撃退された。 フランス軍は敗走するプロイセン軍を追撃し、10月25日、プロイセンの首都ベルリンを制圧。10月27日にナポレオンもベルリンへ入城した。開戦からわずか19日後の出来事であった。フリードリヒ2世(大王)の墓所を訪れたナポレオンは、「彼が生きていれば我々は今日ここにいなかっただろう」と語ったという。11月6日、マクデブルクの守備隊が降伏し、事実上、国内のプロイセン軍は消滅した。
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