プロイセン王国軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 06:26 UTC 版)
「イエナ・アウエルシュタットの戦い」の記事における「プロイセン王国軍」の解説
中央軍(60,000名) - フリードリヒ・ヴィルヘルム3世、ブラウンシュヴァイク公カール・ヴィルヘルム・フェルディナント 左翼軍(42,000名) - ホーエンローエ大公フリードリヒ・ルートヴィヒ(Friedrich Ludwig) 右翼軍(28,000名) - エルンスト・フォン・リュッヒェル 予備軍(15,000名) - ヴュルテンベルク伯ヨハン・ダヴィッド・ルートヴィヒ 総兵力 - 145,000名 総司令官はフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が務めたが、彼には軍事指揮官としての経験も能力もなく、実際の指揮は最先任将校のブラウンシュヴァイク公が執っていた。しかし、厳密に指揮権が規定されていたわけではなかったため、プロイセン軍の指揮系統はしばしば混乱した。加えて通信や伝令も徹底しておらず、指揮の不統一とあいまって各軍の連携は困難であった。連携の不備は進軍路の選択に悪影響を与え、結果としてプロイセン軍の機動力を低下させた。 総じてプロイセン軍の軍事編成や戦闘教義は七年戦争当時と大きな変化はなく、フランス軍に比べると旧式であることは否めなかった。マッセンバッハやシャルンホルストらは以前から改革の必要性を訴えていたが、軍部内では彼らは少数派であり、改革は部分的にしか実行されなかった。プロイセン軍が師団制を導入したのは、この1806年の動員時が初めてであった。
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