プロイセン王太子妃として
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「ヴィクトリア (ドイツ皇后)」の記事における「プロイセン王太子妃として」の解説
ドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公国出身の父アルバートは、ドイツ統一の夢をかなえるべく、長女をプロイセンのフリードリヒ王子(愛称フリッツ)に嫁がせた。1851年にロンドン万国博覧会を訪れたフリッツを、ヴィクトリア女王達は温かく歓迎した。ヴィッキーは当時10歳とはいえ溌剌とした楽しい女の子で、相手の気をそらさず、当時19歳であったフリッツをよく笑わせたという。それから2人は親しくなり、文通をするようになった。 1855年に再びロンドンを訪れたフリッツから、ヴィッキーは結婚の申し込みをされた。彼女はフリードリヒ王子に恋しており、すぐに承諾した。1857年にヴィッキーとフリッツは婚約し、1858年1月25日に結婚した。ベルリン王宮にて盛大な晩餐会を行いプロイセンの貴族たちに温かく迎えられた。 しかし、プロイセン首相ビスマルクは、この結婚でイギリスからプロイセンにドイツ領邦の統一に関して口を挟んでくるのではないかと、幼少より聡明で父親の影響を受けた自由主義者のヴィッキーを警戒した。当時のプロイセンは貴族が統治する君主国が複合してできた国家であり、非常に保守的であった。居城も古めかしく、浴室もなく冬になるとやたらと暖房を使い室内は30度を越える暑さになったとヴィクトリア女王に手紙で嘆いている。ヴィッキーとフリッツは5月になるとポツダム郊外のバーベルスベルクの小宮殿(ドイツ語版)に移転したが、この宮殿も決して住み心地が良いものではなく、100年ほど前に建築された新宮殿(ドイツ語版)を修繕して居城とした。 住み心地の良い居城を手に入れても、口さがない王室や貴族たちのヴィッキーに対する妬みは変わらなかった。ヴィッキーはフリッツのかつての家庭教師であるシェルバッハ教授や、科学者、画家、歴史学者、文学者たちと新しいサークルを作った。フリッツはヴィッキーの知識欲を理解したが、他の王室の人間はますますヴィッキーを非難し、離れていった。 ヴィッキーは三男ジギスムントと四男ヴァルデマールの二人の息子を幼くして亡くした。このことから病院作りに力を入れるようになる。ヴィッキーは結婚前にフローレンス・ナイチンゲールと出会い、衛生学や病院管理について学んでいた。1870年、ヴィッキーは戦場が近いハンブルクの古城に移住し、私財を投入しそこを病院に作り変えた。フリッツはこれを非常に喜び、またプロイセンの人々も徐々に彼女の努力を認めだした。後に「ヴィクトリア・ハウス」という看護学校も設立した。「ヴィクトリア・ハウス」は看護婦養成だけでなく、貧しい人々への衛生指導にもあたっている。1875年、ヴィッキーはベルリンの「家庭と健康を守る会」の指導者になった。ヴィッキーとフリッツが設立した幼稚園は託児所を兼ねており、夫婦共働きの家庭にとって非常に役立つものとなった。 女子教育の向上にもヴィッキーは尽力した。ヴィッキーが嫁いだ当時のプロイセンは女子教育は不必要である、という考え方が主流であったが、ヴィッキーは女子高等教育のために3つの学校を創設した。校長にイギリス人女性を採用したこともあり、この学校は人々から非難の対象となった。当時のプロイセンでは男性も人前で体操をすることが見苦しいことだと考えられており、教育科目から体育は外されていた。ところがヴィッキーの学校では、女性が屋外で体操をするということに対し、ヴィッキーに好意的であった社交界の人間までもが激怒してしまった。それでもヴィッキーは諦めることなく、女子に幼稚園経営や家政学を教え、多くの女性教師が誕生し、後にスコットランドやイギリスから留学する生徒も出てくるようになった。 フリッツは長年にわたるヴィッキーの慈善事業の成果を非常に喜び、やがてプロイセンの人々もヴィッキーを歓迎するようになった。 シュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡ってデンマークとプロイセンが争ったときには義父ヴィルヘルム1世にデンマークと停戦するように促した。停戦を促したのには理由がある。ヴィッキーの実家であるイギリス王室ではヴィッキーの弟アルバート・エドワード王太子の妃にデンマークのアレクサンドラ王女を王太子妃に迎えていた。ヴィクトリア女王の娘ヴィッキーの嫁ぎ先と義理の娘アレクサンドラの実家がシュレースヴィヒ=ホルシュタインを巡って争っていたのだった。ヴィクトリア女王はこのことに心を痛めていた。
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