プロイセン王国への併合と合同教会成立
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「ヴェストファーレン福音主義教会」の記事における「プロイセン王国への併合と合同教会成立」の解説
マルク伯領、ラーヴェンスベルクとミンデンは17世紀、テックレンブルクは18世紀にブランデンブルク=プロイセンに併合され、その周辺地域も1803年の帝国代表者会議主要決議以降、もしくはフランス支配が終わった1815年のウィーン会議終了以降プロイセン王国に併合され、ミュンスターを県都とするプロイセン王国ヴェストファーレン県に組み込まれた。この時代において、ヴェストファーレン県の教会組織が形成された。宗務局がミュンスターに置かれた。プロイセンにおける福音主義教会の教会統治者(summus episcopus)はヴェストファーレン県においてもホーエンツォレルン家出身のプロイセン王であった。1817年の宗教改革記念祭に際して、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世はルター派と改革派教会を合同したプロイセン福音主義教会の結成を命じた。この合同教会成立によって、プロイセンの福音主義信徒は聖餐を共にすることになった。このプロイセン王の命令はルター派と改革派教会共同体において幅広く支持された結果、合同に関する協定が結ばれ、礼拝だけでなく教会法的にも一緒になった。ナッサウとバーデンでの教会合同時とは違い、プロイセンにおける教会合同に際して、強い批判が起きたため、ルター派と改革派教会の信仰告白を一つにした教憲を制定することが出来なかった。ルター派と改革派教会共同体は自派固有の信仰告白をそのまま保持しながら、プロイセン王国内において、合同福音主義教会であるプロイセン福音主義教会が成立した。教会名称は何度も変更されるが、1922年になって古プロイセン合同福音主義教会と言う名称に落ち着くことになった。1921年以前の段階で、プロイセン州の福音主義教会はブランデンブルク (ベルリンを含む)、東プロイセン、ポンメルン、ポーゼン、ザクセン、シュレージエン、西プロイセン、ヴェストファーレンというキルヘンプロヴィンツ(教会州)ごとに分けられていた。キルヘンプロヴィンツごとに役員会が置かれ、教会運営を担っていた。ヴェストファーレンの場合、ミュンスターに宗務局が置かれ運営された。1819年にリップシュタットでヴェストファーレン・キルヘンプロヴィンツ(教会州)教会総会が開催され、プレゼスと呼ばれる総会議長が選出された。しかしながら、実際の教会運営はミュンスターにいる宗務局が担った。当初のヴェストファーレン・キルヘンプロヴィンツ(教会州)議長職は兼職であったが、その後、常勤職になった。1835年3月、ヴェストファーレン・キルヘンプロヴィンツ(教会州)教会はラインラント教会と共に教憲を採択した。1855年に教憲に信仰告白条項が導入され、ルター派、改革派教会、合同教会の信仰告白が併存する形で明記されたため、合同教会であっても個々の教会共同体は従来の信仰告白を保持することになった(ルター派教会共同体は合同教会加入後もルター派信仰告白をそのまま保持した)。キルヘンプロヴィンツ(教会州)教会宗務局と議長がミュンスターに常置する形で、教会運営が行われていた。当時、牧師のトップとして霊的指導をする総地区長(Generalsuperintendent)と信徒代表としての総会議長職が置かれた。1850年にプロイセン福音主義教会の最高宗務局(EOK)がベルリンに置かれた。プロイセン王国は1864年にシュレスヴィヒおよびホルシュタイン公国、1866年には、ヘッセン、ナッサウとハノーファーを併合したが、これらの領邦にあった福音主義教会は独立を維持し、プロイセンの合同教会組織には組み込まれなかった。
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