プロイセン王即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 23:27 UTC 版)
「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「プロイセン王即位」の解説
1861年1月2日に兄王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が崩御し、摂政ヴィルヘルムが63歳にして正式にプロイセン国王に即位した。1月18日には「統帥権行使に関する勅令」(Allerhöchste Kabinettsorder)を発令し、軍事予算・軍事行政に関わる問題に関してのみ国王は陸軍大臣の副署を必要とすることとし、軍勤務事項と軍人事については陸軍大臣の副署を不要とすることで軍を議会の影響から遠ざけた。この勅令は1919年10月まで存続し、プロイセンとドイツ帝国の大元帥の統帥権の基礎となった。 ヴィルヘルムは1月14日に国王としてはじめて招集した衆議院の開院式の勅語の中で国民代表が軍制改革を協賛することを要求した。しかしこの会期ではすぐに国王と衆議院の対立がはじまった。政府は軍制改革問題について国王の統帥権により当然に実施されるものとしてこれを特別な経費とせず、一般会計予算に計上しようとしたが、衆議院軍事委員会は先の暫定法の措置はあくまで暫定的措置であることを強調し、また「ラントヴェーアは1814年兵役法により定められている制度であり、これを国王が命令で勝手に改変することはできない」点を指摘した。本会議での議論は紛糾したが、最終的には自由主義右派(旧派自由主義)の主導で政府原案の61年下半期の軍制改革経費490万ターレルから75万ターレルを削減し、特別会計予算として決議した。同時に「軍制改革のために取られた措置を継続させるには1814年兵役法の改正が必要である」とする見解を圧倒的多数で決議した。これに対して陸相ローンは「改正法案は提出するが、それは政府が自らに課した義務であり、議会に対して政府が拘束される義務ではないと理解している」と述べて衆議院を牽制した。 ヴィルヘルム自身は形式にはこだわりはなく、6月5日の閉院式の勅語で「承認の形式は偉大なる措置(軍制改革)の生命原理に関わる問題ではないので、私はこれを無視する」と宣言した。 10月28日にフリードリヒ1世の前例に則ってベルリンではなくケーニヒスベルクのケーニヒスベルク城で戴冠式を行った。参列した衆議院議員一同に向かって王権神授説の勅語を述べ、自由主義勢力を牽制した。 ケーニヒスベルク城でのヴィルヘルム1世の戴冠式(アドルフ・フォン・メンツェル画) ケーニヒスベルク城でのヴィルヘルム1世の戴冠式(ジョージ・ハウスマン・トーマス(英語版)画) 戴冠式で皇太子妃ヴィクトリアから忠誠の接吻を手に受けるヴィルヘルム1世
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