ちょく‐ご【勅語】
勅語
勅語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:19 UTC 版)
通例として、帝国議会の開院式や閉院式のたびに勅語が下され、官報の帝国議会欄に掲載された。帝国議会に関する特例の勅語としては次のものがあった。 1893年(明治26年)衆議院の上奏に関して内閣各大臣への勅語。これは官報の宮廷録事欄に「勅語」と題して掲載された。御名御璽がなく大臣副署もなかった。 1897年(明治30年)衆議院の奏請を採納し、内帑金と官僚納金を製艦費に充てるのを止める勅語。これは官報の宮廷録事欄に「勅語」と題して掲載された。御名御璽がなく大臣副署もなかった。 1901年(明治34年)貴族院に増税法案の可決を望む勅語。これは官報の帝国議会欄に「勅語」と題して掲載された。御名御璽がなく大臣副署もなかった。当時この勅語に大臣副署のないことが政治問題となった。貴族院が増税法案を否決しようとしたので、勅語を貴族院に下して増税法案を可決させたが、その勅語の写しに大臣副署がなかった点が問題視された。当時貴族院議長からの質問に対し、伊藤首相はみずから勅語に責任を負うと弁明した。当時の新聞記事は、今回の勅語を1892年の「貴族院ヘノ勅諭」と比較し、1892年の勅諭は御名御璽と大臣副署があったので服従を要したが、今回の勅語はそれがないので服従しなくていいのであろうかと疑問を呈した 日清日露の戦中戦後には、軍や軍人への勅語が官報の戦報・彙報に多数掲載された。日露戦争では開戦に先立ち海軍大臣・陸軍大臣に「露国との交渉を断ち我独立自衛の為に自由の行動を執らしむる」旨の勅語を与え、その後ロシア旅順艦隊を奇襲し宣戦布告を経た後にこの勅語を官報に掲載した。軍や軍人への勅語は短文のものが多いが、日露戦争の和議成立後に陸海軍に下賜された勅語は比較的長文であった。 日露戦争の開戦前後に伊藤博文・松方正義・山県有朋・井上馨に「卿カ啓沃ニ頼ルヲ惟ヒ」「卿ヲシテ国家要務ノ諮詢ニ応セシ」むという文言を含む勅語が下され、官報の宮廷録事欄に掲載された。日清・日露の講和会議にあたっては全権受任者に勅語を下した。このほか戦後に日本赤十字社、帝国軍人援護会、浄土真宗本願寺派などに対し戦争協力を褒賞して勅語を下すことがあった。
※この「勅語」の解説は、「詔勅」の解説の一部です。
「勅語」を含む「詔勅」の記事については、「詔勅」の概要を参照ください。
勅語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:19 UTC 版)
口頭による詔勅を勅語といった。文書によらない勅旨が勅語とされた。 通例として帝国議会開院式や閉会式で勅語が下された。開院式の勅語は、国務大臣の輔弼により文書に記して議会に渡されるが、本来は勅語の筆写であるから、公式令でその形式を示すものではないとされた。 皇室の大事にかかわる儀式において勅語が下された。具体的には、践祚後朝見の儀、即位礼当日紫宸殿の儀、即位礼及大嘗祭後大饗、立太子礼当日賢所御前の儀、大喪後恵恤の儀において勅語が下された。 天皇が内帑金(御手許金)を下賜するときに勅語を下すことがあった。たとえば、明治天皇の済生勅語、大正天皇の在郷軍人会への勅語、昭和天皇の軍人援護の勅語、戦災者援護の勅語などは賜金の際に下された。 大正天皇は皇位を継いで半月後の8月に、山県有朋、大山巌、松方正義、井上馨、桂太郎を召して、それぞれに対し次のような勅語を与えた。卿は多年にわたり先帝に仕え直接その聖旨を承けていた、朕はいま先帝の遺業を継ぐにあたって卿の助力を必要とすることが多い、卿は宜しく朕の意を体し朕の業を助ける所あるべし、と。このとき内閣総理大臣であった西園寺公望も、同年12月に内閣総理大臣を辞める際に同様の勅語を与えられた。 第一次世界大戦やシベリア出兵の際には軍への勅語が官報に掲載された。たとえば、青島陥落、ドイツとの講和、シベリア撤兵などに関して軍へ勅語を下した。 教育関連ではたびたび勅語が下された。学制50年記念式典での勅語、教育担任者への勅語、小学校教員代表者への勅語、青少年学徒への勅語、教育勅語渙発50年記念式典での勅語。いずれの勅語についてもその趣旨を補足するため文部省が訓令を発した。 また、何かの何周年かを記念して勅語が下されることがあった。上記の教育関連のもの以外でいうと、鉄道50年祝典、徴兵制60年、支那事変1年、帝国憲法発布50年祝賀式典、自治制50周年記念式、裁判所構成法50年、紀元2600年式典において勅語が下された。
※この「勅語」の解説は、「詔勅」の解説の一部です。
「勅語」を含む「詔勅」の記事については、「詔勅」の概要を参照ください。
勅語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 06:48 UTC 版)
(現代表記)我が国未曾有の変革を為んとし、朕、躬を以て衆に先んじ天地神明に誓い、大にこの国是を定め、万民保全の道を立んとす。衆またこの旨趣に基き協心努力せよ。年号月日 御諱 (意味)我が国は未曾有の変革を為そうとし、わたくし(天皇)が自ら臣民に率先して天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民を保全する道を立てようとする。臣民もまたこの趣旨に基づき心を合わせて努力せよ。 この勅語は、明治天皇が神前で五箇条を誓った後、群臣に向けて下した言葉である。これは三条実美が読み上げている。 勅語中「年号月日」とある箇所は、実際の日付が記されている。「御諱」とは実名であり、ここには明治天皇の実名(睦仁)が記されている。
※この「勅語」の解説は、「五箇条の御誓文」の解説の一部です。
「勅語」を含む「五箇条の御誓文」の記事については、「五箇条の御誓文」の概要を参照ください。
勅語
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 23:41 UTC 版)
日露戦争の講和条約であるポーツマス条約から約8か月後に、明治天皇から帝国軍人後援会への勅語が存在する(1906年6月7日)。 明治三十七 八年の戦役に際し、時に及び財を募り、以て軍人、家族、遺族、廃兵救護の経営に資し、克く軍人援護の績を致せり。朕深く之を嘉す。
※この「勅語」の解説は、「帝国軍人後援会」の解説の一部です。
「勅語」を含む「帝国軍人後援会」の記事については、「帝国軍人後援会」の概要を参照ください。
「勅語」の例文・使い方・用例・文例
勅語と同じ種類の言葉
- >> 「勅語」を含む用語の索引
- 勅語のページへのリンク